その二
「あ、ちょっとどいてて。コレ、曲げるから」
彼が格子に手をかけ、力を込めた次の瞬間、格子が泥のようにぐにゃりと曲がった。
けれど彼はなんてことない顔で、そこを通り抜けると、驚いているカルアを見て、にししっと秘密めいた笑みを浮かべた。
カルアはとっさに曲がった部分の格子を調べたが、不自然に湾曲している以外は、ほかの格子と同じく硬かった。
カルアもやろうと思えば曲げられるが、それは彼女が獣族だからだ。普通の――しかも自分とあまり背丈の変わらない華奢な少年にできる技だとは思わなかった。
「あ~、ひっさびさぁ。やっぱ狭いと退屈だよな~」
背伸びをしたシーファスは、大きく伸びをした。
その腕は、重そうな鉄球のついた鎖で繋がれていたが、彼はいともたやすく引きちぎると、鉄球を手の中で弄んだ。
「ま、これも悪くないけど、俺には通じないね」
けらけらと笑うシーファスを子細に見つめていたカルアは、彼からただよう血の濃い匂いと赤黒く変色した服を見て眉を寄せた。
「どこか怪我を?」
「んん? ああ、まいっちゃうよね~。あの女、虫一匹殺せません~なんて顔してさ、いたぶりなれてるっていうかさぁ。俺じゃなかったらとっくにあの世逝きだったし。やっぱ俺が使者になって正解だったな」
「手当は後ほど、まずはここを……」
脱出しなければ、と言おうとしたカルアは、ぞわっと粟立つような気を感じて、鎌を素早く組み立てた。シーファスの前に出て、身構える。
「残念だ、カルア」
聞き覚えのある声音に、カルアの鎌を握る手が汗ばんだ。
「ハル、ヴィ、様……」
その呟きに呼応するかのように地下に明かりがともっていく。
唯一の出入口である階段のところで佇むのは、伝導師ハルヴィと灰色の服を着た教徒が三人であった。
「なんだぁ?」
緊張感漂う中に暢気な声を上げる見張り番の声が、虚しく響き渡る。
教徒が仕事怠慢の見張り番たちを捕らえ、空いている牢の中へと放り投げた。状況が飲み込めていない二人は、冷たい地面に座り込んだままぼぅっとしていた。
「けれど聖女ナディアはお前をお許しになるだろう。裏切り者のお前を。たかだか獣族であるという理由だけで」
憎しみがこもった声が鋭くカルアの胸に突き刺さる。
愕然とした表情でカルアは悲鳴にも似た声を上げた。
「私は裏切ってなどおりません!」
「はっ。なにを今更! わたしは見ていたぞ。お前がそこの者を檻から出す手助けをしていたところを。言い逃れができると思っているのか?」
「蒼き国の王と約束をしました。使者殿を必ず連れ帰ると。ハルヴィ様は約束を違えろとおっしゃるのですか? ナディア様の教えでは、嘘をついてはいけないとあります」
「それは、保護区に入っているから通用する台詞だ。蒼き国が保護区となるのを拒んだ以上、聖女ナディアの教えが適用されると思うか?」
「!」
ハルヴィに指摘されはじめて気づいたのか、カルアの顔から色が失われていく。
「お前の行為は紛れもない裏切りだとやっと気がついたのか。これだからお前は若いのだ。いいように操られたようだな」
嘲笑が反響した。
「さあ、そいつを渡せ。今ならば、お前の失態に目を瞑ろう」
ハルヴィは言いながら一歩近づいてきた。
反射的に後じさったカルアは、ゆるりと首を振った。
「……私は、使者殿をお守りいたします」
「聖女ナディアを裏切るのか?」
怒気を押し殺した低い問いかけに、カルアはハルヴィの目を見つめた。
「私は、」
「あ~あ、つまんない」
カルアが言いかけたそのとき、気が抜けたような声が割り込んできた。
「使者になったらもっと楽しいことがあると思ってたのに、ちっとも楽しくない。そこにいるおっさんも見苦しいしぃ~」
「おっ……!」
ハルヴィの顔が怒りで真っ赤に染まる。
「ねぇ、カルア。さっさとこんなとこ出ようよ。はやく城へ戻りたいな」
シーファスが無邪気にそう言った瞬間、ハルヴィの顔色が変わった。
「逃がすものか! 二人を捕らえよっ」
それまで静かに控えていた教徒たちがばっと動いた。
「シーファス様、お下がりください。ここは私が」
武器をもたない教徒など怯む相手ではなかった。急所を狙い、長い柄を次々と繰り出すと、三人いた教徒が瞬きの間に地面に伏した。
「役立たずが」
吐き捨てたハルヴィは、長剣を鞘から抜くとカルアに向けた。肌を刺す殺気は、さすがに百戦錬磨とうたわれるハルヴィだけある。
いくら強いカルアであっても戦いとなれば、そこは手慣れたハルヴィのほうに分がある。
気圧されたように後じさったカルアは、シーファスにそっと囁いた。
「私がハルヴィ様の注意を引きつけている間にお逃げください」
「それってもしかして自己犠牲ってやつ?」
「私は殺されることがないようですが、シーファス様はどうなるかわかりませんし……」
「ふうん。でもそれって却下。あんたを置いてきたって言ったら兄様がうるさいしね。それにどうやって出ればいいかわかんないし」
「けれど、勝てるかどうか……」
「ああ、それを気にしてたの?」
「なにをゴチャゴチャと言い合ってる!」
ハルヴィが斬りかかってきた。
とっさに鎌を出し防いだカルアの横をシーファスが駆け抜ける。手の中にあった鉄球をハルヴィに投げつけ、気を逸らせると跳躍した。
「少しの間寝ててね」
素早くハルヴィの首に手刀を落としたシーファスは、にやっと笑った。ぐらりと揺れてうつぶせに倒れる巨漢。
強い!
そして鮮やかであった。
カルアは白目を向いているハルヴィからシーファスに視線を移した。味方ならば彼ほど心強い者はいないだろう。けれど敵だったら?
そこまで考えて肝を冷やした。
ナディア教一の剣の使い手であるハルヴィがものの数秒で倒れたのだ。ほかの伝導師など束になっても勝てないだろう。
「せっかくだから旅費でももらってこうかな」
にししっ、と気色悪い笑みを浮かべたシーファスは、こそ泥のように倒れている教徒やハルヴィからお金の入った袋を盗んだのだった。




