その四
部屋を辞したカルアを見送ったナディアは笑みを消した。
「ハルヴィ、どう思いますか?」
続き扉がゆっくりと開く。
そこから姿を現したのは、気配を殺して潜んでいた伝導師ハルヴィであった。
カルアと同じ服に身を包んだハルヴィは、考え事をするように難しい顔で無精髭を撫でると、大きな体を窮屈そうに動かしてナディアのそばに歩いていった。
「声の調子が前と違いますな。迷いがある」
「そうですね。本人は隠しているようでしたが、わたくしへの忠誠心が薄らいでいましたわ」
「聖女ナディアに対する冒とくですな。あやつほど忠義ある心根の者はみたことがなかったが……」
「蒼き国は恐ろしいですね。いまさら後悔などしても遅いのかもしれませんが……。あの子がわたくしの手を離れていくのかと思うと寂しくて気が狂ってしまいそうです」
「生かしておくのか?」
物騒な言葉を口にするハルヴィに、ナディアは酷薄な笑みを浮かべた。教徒が見たこともない冷たい笑みだ。
「獣族の娘でなければ始末していたでしょう。わたくしに対する忠誠の揺らぎは、みなの和を乱します。けれど、あの子はまだまだ使い道がありますもの。今では最後の生き残りを手に入れたのよ。そうやすやすと逃しません」
青白い顔で自室としてナディアから与えられた教会の一室に戻ったカルアは、聖肉を床に吐きだしてしまった。すでに胃が受け付けなくなっていたのだ。
「どうぞ、お水です」
世話係が持ってきた水で口の中をすっきりさせると、後始末をしてくれる彼女をぼんやりと眺めていた。
ナディアの付きの世話係だろうか。それともほかの者の?
見たことのない顔というは新参なのだろう。
まだ初々しい顔は、カルアに入ったことのときを思い出させた。あの頃は、ナディア以外が信じられず、いつもあとをついて回っていた。一族を皆殺しにした蛮族に対する恨みばかりで、ほかの教徒からみれば酷く扱いにくかった子であろう。
「あ、あの……っ」
ぎこちない声にハッとわれに返ったカルアの目に映ったのは、平伏する世話係の姿だった。
すでに床は綺麗になっていた。彼女がすべて片付けてくれたのだ。
「ありがとうございます。本来なら自分でやるべきなのに……」
彼女の手を汚してしまったことを申し訳なく感じた。
「とんでもない! 伝導師カルアさまのお世話をすることは無上の喜びです。わたくしどもの間では、若くして伝導師になられたカルアさまは憧れの的です。……あ、申し訳ございません。いらぬことを申しました」
「いいえ、顔を上げてください。あなたもいつか伝導師になれますよ。私も入ったばかりの頃は、ナディア様のお世話をしていたのです。それから伝導師見習いとなり、試験に合格したあと伝導師となったのですから。あなたはまだ若い。もし目指しているのならば、今からでも遅くはありませんよ」
頭を上げた世話係は、首をゆるりと振った。
「わたくしには伝導師さまのような体力と知力がございません」
カルアはそっと視線を彼女から逸らした。
カルアが伝導師となれたのは、相棒の使い勝手のよさもあるが、血に流れる獣族の力によるところが大きいだろう。
普通の娘ならば、脱落してしまうような運動量もカルアには軽い体操でしかない。
獣族は、その名の通り野性的な本能がある。
女に生まれたカルアは、体型こそ柔ではあるが、動体視力も反射神経も男には引けをとらないだろう。力業ならば、大男ですら片手で持ち上げることができる。
そんな秀でた能力がなければ、カルアも伝導師になることはできなかっただろ。
「けれどラネが……」
「ラネ?」
だれの名だろうと首を傾げると、それに気づいた世話係が緊張した面持ちで言った。
「伝導師さまが先ほど捕らえた者の名でございます」
「ナディア様に刃物を向けたそうですね」
「それは……っ」
感情をあらわにしそうになった世話係は口を押さえると頭を下げた。
「ラネにどうかお慈悲を! ラネはずっと伝導師カルアさまのようになるのを夢見ていたのです。聖女ナディアさまを心からお慕いするラネが傷をつけようとするはずがありませんっ」
「……ラネという者のことを信じているのですね」
「教会に来てからはじめてできた友達なのです」
ほんの少しはにかむ彼女に、自分の姿が重なった。
けれど自分は友であるハーミアを信じることができず……。
考えるように目を瞑ったカルアであったが、答えはすでに決まっていた。
「わかりました。私のほうからナディア様に伺ってみましょう。ナディア様はお優しお方です。きっと事情がわかればお許しくださるでしょう」
世話係の心を和らげる言葉を並べたカルアであったが、もう生きていないかもしれないという思いもあった。ナディアに刃物を向けたのなら、それだけに万死に値する。いくら教徒には甘いナディアが許しても、ほかの者が許さないだろう。
先ほどのナディアの常とは違った姿が思い浮かぶ。
あれが真実の姿なのだろうか。
ナディアに感じたのは、安心ではなく紛れもない恐怖であった。




