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   その三

「ああ、カルア――!」


 カルアに気づいたナディアは挨拶の言葉を省略して抱きついてきた。


「あなたがいてくれてよかったわ」


 乱れた髪に震えている声。よほど怖い思いをしたのだろうか。

 いつもより小さくみえるナディアを抱きしめ返したカルアは、我が家に帰ってきたような安堵感とナディアの変わらない自分に対する思いの強さに胸がいっぱいになった。


「なにも知らせず、急な帰還で申し訳ございません」

「いいのよ。あなたのおかげでわたくしを亡き者にしようとした娘は捕まったのだから。あやうく取り逃がすところだったそうよ。あなたが捕まえていなかったら見失っていたかもしれないわ」

「偶然です。それよりもお怪我はありませんか?」

「平気です。……今でも信じられないわ。こん身的に尽くしてくれたというのに……。刃物を向けてくるあの子は別人だったわ。恐ろしい……」

「まだ眠るのには早すぎますが、少し横になられたらいかがですか?」


 カルアがそう提案すると、ナディアは気丈にも首を振った。


「カルア。あなたが無事な姿を見せてくれたことがなによりも嬉しいわ」


 カルアの顔を見て落ち着いたのか、少しばかり顔色のよくなったナディアが、心からの笑顔でカルアを出迎えた。


「蒼き国へはたどり着けましたか? 道案内人もおらず、さぞ心細い思いをしたでしょう……。蒼き国へたどり着く前に死に絶えた者も多くいたと聞きます。使者の方を留めてしまったわたくしを許してね。けれどあなたなら苦難を乗り越えられると信じていましたよ」

「……ナディア様は私のことを買いかぶりすぎです。私はまだまだ脆弱で、迷惑をかけてばかりの若輩者です」

「けれど、蒼き国へ足を踏み入れたのでしょ? そうでなければあなたがわたくしの前へ姿を見せるはずないわ」


 確信に満ちあふれた顔からは、カルアに対する深い信頼と愛情を覗かせていた。

 そんなささいなことがとても嬉しくて、ナディアに対して感じていた不信感が胸の内で溶け消えていくかのようだった。


「蒼き国は地上の楽園と噂する者もいるけれど、あなたからみた光景はどうでしたか?」

「そう、ですね。とても豊かな国だと思いました。思っていたよりも鎖国的ではなく、近隣の国々とも国交があるようでした」

「そう……。それで守備はうまくいって?」


 カルアの顔が強ばった。


「――申し訳ありません。私の落ち度で、未だナディア様の教えを広めることはできていません。けれどこれから国王を説得し、ナディア様の教えを広めていきたいと思っております」


 そう決意をあらわにするカルアだったが、ナディアの目をまっすぐみられなかった。

 ナディアは遂行できなかったカルアのことを快く思わないだろう。蒼き国にとても執着していたのだから。

 しかし。

 どこか後ろめたそうな顔で俯くカルアを底の見えない笑顔で見つめたナディアは、愉しげに語った。


「それならば、もういいのですよ。確かに、蒼き国が保護区となれば、西の地へ教えを広めることも容易くなりましょう。けれど、これまでと変わらずわたくしを拒むのであれば、わたくしにも考えがあります」

「ナディア様……?」


 カルアは顔を上げた。

 ナディアはいつも通りの慈愛に満ちた笑顔を浮かべているというのに、どうしてか空恐ろしく感じられた。

 ナディアは、笑顔を浮かべたまま、ゆっくりと口を開いた。


「聖なる粛清を行います。あなたが戻ってきてくれて本当によかったわ。どのような方法で(たず)ねても、使者殿は(がん)として蒼き国への道筋を答えないのですもの。死の森はとても厄介だと聞きました。案内人もいないとうのに、森を抜けて蒼き国へ攻め入ることができるのかしらと考えあぐねていたところよ」


 ナディアも死の森の恐ろしさは知っていたのだ。

 それなのに、あえてカルアをひとりで行かせた。カルアなら迷わないと本当に信じていたのだろうか。それとも、死んでもいいと考えていたのだろうか。

 どうしてか悪い方へと考えてしまう。

 先ほどまでのナディアへの信頼感がまた徐々に揺らぎ始める。黒い染みがぽつんと一滴胸の中に垂れたようだった。


「そういえば、使者殿は、繊細な姿に反して気骨のある者だったけれど、蒼き国の民はみなそうなのかしらね。使者殿は、まるで獣族のように気高くて……、そう、鋼のような体に揺るがない意志を持っていたわ」


 過去形で語るナディアにカルアの背筋が凍りついた。大きく見開かれた瞳が複雑な色を宿す。


「まさか、亡くなられたのですか?」

「顔色が悪いですね」


 カルアの色を失った頬にすっと手を滑らせたナディアは、朱色の唇に柔らかな笑みをのせた。


「蒼き国の王にほだされましたか?」


 口調は柔らかだったが、反論を許さない強さがあった。


「いい、え」


 ナディアの威圧感にのまれ言葉がつまった。


「残念ながら使者殿は生きていますよ」


 その言葉に思わず安堵のため息をつきそうになったが、ナディアの探るような視線を受けて固まった。


「けれどずいぶん衰弱していたようだから、明日までもつかしら……」


 くすくすと笑うナディアに、慈悲深さはなかった。

 これは本当にあのナディアなのだろうか?

 聖女とうたわれた慈愛の女神?

 カルアは乾いた喉を潤すかのように、唾を飲み込んだ。畏れを含んだ眼差しで、ナディアを見つめた。


「使者が亡くなったと知れば、蒼き国も黙っては……」

「カルア。先ほども告げたはずですよ。聖なる粛清だと。わたくしは、罪深い者たちを裁かなければならないのです」

「! 一国を滅ぼすおつもりですか?」


 無表情を保とうとしたカルアの口元が震えた。

 セラフィックたちを殺す?

 あの五年前の粛清のように……?


「――どうやら本当に感化されてしまったようね」


 カルアを観察していたナディアは悲しげに睫を落とした。


「わたくしは滅ぼすつもりなどありません。聖なる粛清が、そんな野蛮な行為と一緒でいいはずがないわ。命は尊いものよ。わたくしはすべての命ある者を愛しているの」

「申し訳ございません」


 カルアは額を床につけ謝罪の言葉を口にした。


「五年前の聖なる粛清のときも、教徒でない者は、わたくしを残虐な支配者ときめつけていたわね。カルア、あなたはその者たちと同じ考えなのね。わたくしの可愛いカルアはどこへ行ってしまったのかしら……。あなたがわたくしの行いを善と見なさないのなら、とても胸が痛みます」

「……」

「わたくしの目を見て」


 ナディアに命じられ顔を上げたカルアは、しっかりと視線を合わせた。

 吸い込まれるほど清らかな光を放つナディアの瞳は宝石よりも美しかった。


「わたくしは無慈悲ですか?」

「い、いいえ……っ」

「けれどあなたはわたくしがあたかも侵略者のように攻め入ると思っているのでしょ?」

「わ、私の言葉が至らなかったのです。女神の化身であらせられるナディア様が、そのような野蛮な行為をするはずがありません。ナディア様の行いは、すべてが正しく、まったく疑いのないことです」


 すらすらと口を突いて出るナディアを讃える言葉。

 ナディアは満足そうに微笑むと、厳かに命じた。


「では、十の誓いを」

「はい、ナディア様――」


 ゆっくりと跪いたカルアは、ナディアを見つめたまま、就寝前に必ず唱えていた誓いを口にした。


一、ナディアの恩恵を受ける地でナディアの教えに背いてはならない。

一、ナディアの恩恵を受ける地でナディアの教えに背く者は容赦なく罰しなければならない。

一、ナディアの恩恵を受ける地でナディアは神と同等であり、ナディアの言葉は絶対である。

一、ナディアの恩恵を受ける地で盗みなどの罪を犯してはならない。

一、ナディアの恩恵を受ける地で互いの合意なく関係を持ってはならない。

一、ナディアの恩恵を受ける地で嘘をついてはならない。

一、ナディアの恩恵を受ける地で弱き者には、常に優しさを持って接しなければならない。

一、ナディアの恩恵を受ける地で民の平和を妨げてはならない。

一、ナディアの恩恵を受ける地で年長者を敬わなければならない。

一、ナディアの恩恵を受ける地だけでなく、全てにおいてむやみに殺生をしてはならない。


「――聖女ナディアの教えにいかなる場合においても忠実に従い、この命を捧げることを誓います。すべての教徒、すべての民、そして聖女ナディアの頭上に清らかな導きがありますように」

「あなたにわたくしの加護を与えます」


 ナディアは、懐から小袋を取り出すと、その中から聖肉を手にした。それをカルアの口に持っていくと、カルアは一瞬躊躇したあと、覚悟したように舌を出し、聖肉を口に入れた。

 こみ上げてくる吐き気。

 けれどナディアの前ではき出すこともいかず、できるだけ顔色を変えず飲み込んだカルアを笑顔のナディアが見下ろしていた。


「聖女ナディアの御言葉は絶対であり、それに逆らう者は悪です。伝導師による導きこそが民に平穏をもたらし、聖女ナディアの教えによって多くの者が救われます」


 ほんの少しぼんやりとするが、味わうことなくすぐに飲み込んだせいか正気は失わずにすんだ。


「今宵はもう休みなさい。あなたも疲れているでしょ。蒼き国へ聖なる粛清を行う日取りが決まったなら、あなたに道案内を頼みましょう」

「……はい、ナディア様」


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