その二
蒼き国を離れて五日。アシュに跨り、聖地ハーエルに戻ったとき、辺りはうっすらと暗闇に包まれていた。
松明による神秘的な明かりが、教会を色めき立たせる。
薄暗くともなお純白の光を放つ壁には、古代文字によるナディア教の誓いが彫られていた。知識のない者たちは、それをただの模様だと思いこんでいるようだが。
手伝いを申し出る教徒に断りを入れたカルアは、馬小屋までアシュを連れて行った。艶やかな毛並みを撫で、そっと抱きしめると、アシュは嬉しそうに鼻先を押し当ててきた。
蒼き国ではカルアが寝込んでいたせいもあり、なかなかふれ合うことができなかったから、アシュにも寂しい思いをさせていたのだろう。
けれど、アシュを世話してくれた者は、大事に扱ってくれたらしく、カルアが久しぶりに再会したとき、とても健康そうだった。
「また明日ね、アシュ」
別れを告げて離れたカルアは、聖地の中でひときわ高くそびえる教会へ向かった。ナディア教の象徴である二重円に二本の剣と十字を宿した黄金の紋章が、厳かに掲げられていた。
見張りの教徒が伝道師姿のカルアに気づくと次々に跪いていく。
背筋を伸ばして通り抜けたカルアは、正面玄関入口に建っているナディアを象った像を目に入れると、静かに膝を突いて祈りを捧げた。
「騒がしいわね……」
ふと、いつもより大きなざわめきに気づいたカルアが顔を上げる。
「助けて……っ、だれか……!」
カルアが身を起こしたそのとき、少女の悲鳴じみた声が響き渡った。
狂気を帯びた声に、これはただごとではないと悟ったカルアが顔を引き締めたそのとき、角からこちらに向かってくる気配を感じた。
ちょうどカルアに気づかず走っていた少女と体がぶつかった。
反動で後ろにひっくり返る少女を片手で支えたカルアは、顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか?」
「いやっ……いやっ、離して!」
カルアの声も耳に入っていない様子で暴れる少女を不審に思って観察すると、見覚えのある顔だと思った。ナディアの新しい世話係だ。礼を言ったときに、顔を赤らめ、初々しい反応が可愛らしかった少女だろう。給仕をしてくれたので記憶に残っていた。
ナディアのそばに控えているはずの子がなぜこんな時間帯に……と訝しく考えていると、新しい足音が聞こえてきた。
「いたぞっ! 逃がすな!」
殺気だった気配が五つ近づいてくる。
事情のわからないカルアがどう行動するべきか悩んでいると、ようやくカルアの存在に気づいたらしい少女がカルアの名を呟いた。
「ぁ……カ、カルアさま! どうか、どうかお助け下さいっ。ああ、後生ですから……お願いです!」
「なにが遭ったのですか?」
「……わ、わたし、ナディアさまの秘密を知ってしまったんです」
「秘密とは?」
「お、恐ろしい秘密です……っ。ナディアさまは……、」
カタカタと体を震わす彼女が救いを求めてさらに言いつのろうとしたそのとき、遮る鋭い声があった。
「見つけたぞ!」
そう声を荒げたのは、真っ先に駆け寄ってきた男であった。
服装からして教会の警護を担当している教徒なのだろう。灰色をまとった教徒たちは次々と姿を現した。
最初に声を上げた男の後ろからやって来た男たちは、少女を抱き留めるカルアに気づくと、驚いたように呟いた。
「これは……伝導師カルアさま!」
「なぜここに……」
しかしすぐに身を正すと伝導師に対する挨拶をした。
片膝をつき敬意を表す彼らに、最初に駆けつけた男も罰の悪そうな顔でならった。
「なにがありました?」
ナディアの寵愛を受けるカルアに対する信頼は厚いのだろう。彼らはすぐに事情を説明した。
「そこの者が聖女ナディアさまのお命を狙ったのです。悲鳴に気づき慌てて駆けつけると、短剣を片手に聖女ナディアさまに襲いかかるところでした。捕らえようとした我々のすきをつき逃走したそこの者を追ってきたしだいにございます」
「ナディア様のお命を……?」
少女に視線をやる双眸が鋭くなる。
「嘘ですっ。わ、わたしは自分の身を守ろうと……っ」
「カルアさま、お引き渡し下さい」
「聖女ナディアさまでしたらまだ寝所におります。可愛がっていた者からの心ない仕打ちに打ちひしがれておいででしたから、カルアさまのご帰還をお知りになればお喜びになるでしょう」
カルアが知っている顔もいくつかあった。年配の教徒たちは、恭しい態度でカルアに接した。
「いやっ、いやです。カルアさま、お願いです。助けてください!」
「……っ」
カルアの腕に爪を立て、必死の形相で抵抗する少女の顔は、鬼気迫っていた。
けれどナディアの命を狙ったのだとしたら、カルアに守る義務はない。無理やり引き離すと、教徒の手に渡した。
泣き叫び、暴れる彼女の声が遠くなっていく。
静寂を取り戻し、ようやく一息ついたカルアは、そのままナディアのもとへと向かった。
すでにだれかカルアがやって来たことを知らせているはずだ。
汚れた服や時間帯を気にしてナディアへの挨拶を後回しにしたら、ナディアは酷く悲しむだろう。どんなときであれ、カルアが一番に顔を見せるのを喜んでくれるのだから。
蒼き国の城にも負けない精緻なつくりの回廊を通り抜け、最上階にあるナディアの自室へと向かうと、扉の前に灰色の服をまとった教徒が二人立っていた。
まだぴりぴりとしている空気だったが、ナディアに気づくと空気を和らげて通してくれた。




