その四
嘘よ!
みんな嘘!
それはわかりきっていることなのに、カルアの心は晴れなかった。
これまでだったら、ナディアの言葉こそがすべてで、ほかの者の言葉には耳を傾けなかったのに、なぜかセラフィックの言葉は耳に残った。
繰り返し、繰り返し回る台詞。
言いようのない不安と焦燥がせり上がってきては、煙のように霧散していく。
カルアは手の中の矢じりを見つめ、目を閉じた。
そして思い出す。
ナディアがいかに素晴らしく、神のようなお方であるか。
敬うに値する非の打ち所がない才知と慈愛に満ちたお方。
彼女の存在自体が善であり、すべてを包み込む光なのだ。
なにを惑わされることがあるのだろうか。
――疑うことは罪。
『カツェラ、聞いて!』
ふっとハーミアの声が蘇ってくる。
『わたし、見てしまったの……っ。ナディアさまが……ああ、ナディアさまがわたしたちと年が変わらない子を殺したのよ。笑顔で……微笑みながら、殺したの。それからあふれだす血を……恐ろしいことに、飲んだのよ!』
顔を蒼白にしてそう訴えてきたハーミア。
いつも明るい顔しかみせなかったハーミアがはじめて見せた恐怖の表情だった。
『カツェラ、人ではないわ。やはり女神じゃないのよ、ナディアさまは! わたしは見てしまったの……カツェラ、お願いだからこのことはナディアさまに言わないで。お願いよ。わたしも殺されてしまうわ。……いいえ、それよりも、ここにいては駄目。わたしたちいつか殺されるわ。今ならまだ逃げられる。カツェラ、逃げましょ』
そのときのカルアには、ハーミアが戯言を言っているようにしか聞こえなかった。
ナディアを否定した瞬間からハーミアは親友ではなく、ナディアに刃向かう敵になったのだ。
カルアはハーミアの心変わりが許せなくて、ナディアに敵対心を持つ者だと認識し、ナディアに告げた。
あのときナディアはどんな顔でそれを聞いていただろか?
いつものように笑っていたようにも思えるし、かわいそうにと慰めてくれたようにも思う。
確実なことは、その日を最後にハーミアは姿を消したということだ。
だれもハーミアのことは口にしない。
あたかもそこに存在しなかったかのように。
カルアとて、ハーミアを忘れたかのように振る舞っていた。ナディアにハーミアのことを尋ねたのは、この間がはじめてだったのだ。
双月が冴える中、ひとり考え込んでいたカルアは、どうするべきかと思い惑った。
真実を知りたいと望む自分がいる。
けれど、それは――罪。
ナディアを疑えば、ハーミアと同じ裏切り者となろう。澱んだ闇が胸の内にすくい、じんわりと蝕んでいくようだった。
「ナディア様、私は貴女を信じたい……」
呟いた声はどこか弱かった。
けれどそれを振り払うかのように、いつものように硬貨に向かってナディア教の誓いを詠唱し、すべての者に対しての祈りを捧げると、聖肉と呼ばれる葉を口にした。
けれど独特の味が広がった瞬間、吐き気がこみ上げてきてすぐに口元を押さえた。味わうこともせず手近にあった手巾の中に吐き捨てたカルアは、体を小刻みに震わせた。
(なぜ……?)
教徒となったときから毎日欠かさず飲み込んでいたというのに……。
これもナディアへの忠信が揺らいでいるからだろうか。
「……ッ」
カルアはどうしてもナディアの敵にはなりたくなかった。
記憶に残る温かい腕。
ナディアに救われたその日の温かい腕は、ずっと忘れていなかった。
『さあ、わたくしとともに行きましょう。あなたの進む道がこれ以上辛くないように、これからはわたくしが守り、導きましょう。わたくしはずっとそばにいますよ』
ナディアのその言葉は、カルアの傷ついた心を癒してくれた。
ナディアという支えがあったから今のカルアがあるのだ。
それなのに……。
カルアは顔を覆った。
惑わせるセラフィックが憎かった。
けれど、それ以上にナディアを信じられない自分がもっと厭わしかったのだ。




