その二
アレイから思わぬ名を聞き、精神的動揺と疲労が重なって、寝込んでしまったカルアは、その日から体調の思わしくない日々がしばらく続いた。
やならければならないことは山ほどあるというのに、体が思うように動かなかったのだ。
己の健康を管理することも伝導師として大切なことなのに、その基本すら守れない自分が情けなかった。とても同じ伝導師や教徒区員に見せられる姿ではないだろう。
日が高く昇った窓の外を静かに眺めながら、甘ったるい香りにため息を吐いた。部屋中に充満する果実の熟れた匂いは、胸が焼けるようだった。どこからともなく漂ってくる香りは、カルアしか気づかないようだった。
この気分が悪くなる香りをどうにかして欲しいと訴えても、だれもこの異臭を感じていなかったのだ。
こみ上げてくる吐き気と目眩。
せめて匂いから逃れたくて、空気を入れ換えたいと願っても、病人に冷えた風はよくないと医師にもアレイにも諭され、却下されてしまった。
晴れ渡った空がこんなにも恨めしく思ったことはないだろう。窓を開け放てば、そこに新鮮な空気があるかと思うと晴天が憎かった。
それでも閉鎖的なこの環境は、カルアに考える時間を与えてくれた。
「私は正しかったの……?」
憂えた双眸が揺れる。
それはもう何度も自身に問いかけてきた言葉だった。
三年前のあのとき、カルアは正しい行動をしたと思っていた。
それを今まで信じて疑わなかった。
けれど、アレイに追及され、もろく崩れていくのを感じたのだ。
「失礼します――カルアさま、ラベイク医師が今日は暖かいので少しの間なら窓を開けていてもよろしいとおっしゃって下さいましたわ」
明るい声で入ってきたアレイは、いそいそと窓を開けた。
とたん、五日ぶりの清々しい空気がカルアを優しく包み込んだ。熟れたのではなく、もはや腐りかけたような匂いが、浄化されるように消えていく。
胸一杯に吸い込んだカルアは、頭の中が外のように晴れていくのを感じた。
「ふふふ、カルアさま! ご覧下さい。わたくし、庭園からカラの花を摘んできましたの」
アレイは花瓶に生けた中から一輪抜くとカルアに渡した。
「いい香り……」
スッと鼻をつくさわやかな匂いは、少し薄荷に似ていた。
真っ白の花に、淡い紅色がのっていた。花弁は大きく、令嬢の下衣のようにふんわりと丸くなっていた。
「気に入られました? でしたら明日も摘んで参りますわ。今の時期、カラの花は、それは見事に咲いていますの。カルアさまの具合がよくなられたら庭園にご案内いたしますね」
にこにこと邪気なく笑うアレイの口から、あの日以来ハーミアの名がでることはなかった。
気にしているのは、カルアだけなのだ。それがいっそうとカルアを思い悩ましていた。
「――アレイ、質問してもいいですか?」
上半身を起こすカルアの背に、アレイが体に負担をかけないようにか綿を詰めた柔らかな物を当ててくれた。それだけでぐっと体が楽になった。
「はい、なんでございましょう。なんでもお聞きくださいませ! わたくしが答えられることでしたら何でもお答えいたしますわ」
「……ハーミアとはどんな関係だったのですか?」
そう問いかけた瞬間、アレイの口元が強ばった。けれどもそれは一瞬のことで、笑みを形作る唇がゆっくりと動く。
「ハーミアは……わたくしの妹です」
今度はカルアの顔が強ばる番だった。信じられないといいたげな視線をアレイに向ける。
「ハーミアは孤児だったはず。親を亡くし、さまよっていたところをナディア様に拾われたと聞きました」
アレイは、カルアのまっすぐな視線から逃れるかのようにそっと長い睫毛を伏せ、呟いた。
「教祖さまの目を欺くには、そう設定しなければならなかったのです」
「設定……?」
訝しげに眉を寄せるカルアを今度は正面から見つめたアレイは、どこか昔を思い出すように目を細めた。
「ハーミアはカルアさまを慕っていました。手紙にはいつもカルアさまのことばかり……。わたくしは元気にやっているあの子のことをそれは嬉しく思っていました。年の離れた妹でしたので、とても可愛がっていましたの」
「理解ができません。家族がいるということは、ナディア様に嘘をついたのですか?」
『嘘』と口にするカルアの声は震えていた。それは怒りに震えるというより、戸惑っているようでもあった。
ナディアの十の誓いには、『嘘をついてはいけない』とあるからだ。それをハーミアはよく胸に刻んでいたはずなのに……。ハーミアが最初からナディアを裏切っていたという事実は、そう簡単に受け入れられるものではなかった。
呆然とするカルアを目に入れ、意を決したように顔を引き締めたアレイが何かを言おうと口を開きかけたそのとき、それを遮るように扉が控えめに叩かれた。
「陛下がお見えです」
「まあ! 大変っ」
本来なら、女性の寝所に案内するのはもってのほかだが、セラフィックは見舞いに来たのだろう。
アレイは、寝間着のままのカルアに肩掛けを羽織らせると、髪などの乱れを手早く直していった。
おかしいところはないか確認すると、柱に緩く結わえられていた薄地の織物の綾を解いた。ふわっと風に乗って幻想的に広がり、カルアの姿を覆い隠してくれた。
陛下をお通しして、とアレイが扉の外に控えている侍女に告げると、それから少し経ってからセラフィックが現れた。布に映る影が大きくなる。
「具合はどう?」
耳に心地よい美声は、ナディアのような慈愛深さがあった。
病気になるとどうも気が弱まり、人恋しくなるというが本当だろう。
セラフィックの優しげな声音が、好ましく聞こえるからだ。彼のことはナディアのこともあり、あまり快く思っていなかったが、今はそれほど腹立たしく感じなかった。
「新鮮な空気とカラの花のおかげで気分もよくなりました」
「そう。それはよかった。ならば、ここを開けてもいい? 君の顔が見たいんだ。本当に顔色がよくなったのかね」
カルアは逡巡した。こんなやつれた顔をみられて嬉しい女はいないだろう。
けれど相手は国王だ。彼が望めば、カルアの抵抗などないに等しい。
「……陛下のお気の召すままに」




