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   その二

 ナディアの教えを広めることができず、与えられた豪奢な客室で思い惑っていたカルアは、アレイに視線を移した。


「――アレイも聖ラザス教の信者なのですか?」


 お茶の支度をしていたアレイは手を止めると、大きな目を不思議そうに見開いた。


「わたくしですか? 違いますわ。ああ、司祭さまとお会いになったそうですね。あの方は気むずかしい方ですもの。カルアさまに何事もなくてようござましたわ。カルアさまのお綺麗な顔に傷でもつけたら、わたくし教会に乗り込んでいくところでしたもの」


 ほほほっと軽やかに笑いながらも、目の奥は笑っていなかった。カルアに何か遭ったのなら、本気で仕返しにいくつもりなのだろう。


「聖ラザス教の信者ではない? では、蒼き国にはいくつもの宗教が混在しているということですか?」

「ご存じないもの無理ありませんわ。蒼き国はもともと一神教ではなく、多神教ですもの。この国において、聖ラザス教の歴史はまだ三十年ほどしかございませんわ。賢王……陛下のお父君様であらせられる先代の御代(みよ)に教皇から派遣されてディエス司祭がいらっしゃったのですわ」


 アレイは、注入口の細長い銀の容器から陶器の碗に温かいジャス茶を注ぐと、カルアの前に静かに置いた。


「経緯は存じませんが、賢王と聖ラザスの当時の教皇さまは親しく交流なさっていたようですから、そのご縁かもしれませんね」

「ほかの教会はどうしたのです? 聖ラザス教の暴挙を黙って見逃したとは思えませんが。ひとつの国に複数の宗教が存在するのは、争いの火種になるはずです」


 焼きたての菓子がのった籠から、小皿移して綺麗に盛りつけをしていたアレイは、手を動かしながら、ほんの少し首を傾げた。


「あら、どなたもお話しにならなかったのですね。これだから殿方は気が利かなくて困ってしまいますわ。蒼き国は無宗教ですの。神を選ぶのは民の自由ですわ。ですから多神教と申し上げましたでしょ。商いや農業に勤しむ者たちは、そのときに恵みを与えてくださる神を敬いますの」

「それではいろいろと不都合では……」

「導く王がいらっしゃれば、神などいらっしゃらずとも民は平穏に暮らせますわ。さ、カルアさま。温かいうちにお召し上がりください。調理長がカルアさまのために腕を振るいましたの。甘い物がお嫌いじゃなければよろしいのだけれど」


 勧められるまま取っ手を持ったカルアは、ほのかに香る甘酸っぱさに気づいた。一口含むと、渋みはなく爽やかな味が広がる。こくりと飲み込むと、あとから甘酸っぱさがふわりと口腔を満たした。


「美味しい……!」


 茶色というよりは、赤みの強いお茶は、思っていた以上に美味であった。


「ジャス茶ですわ。ブーレンという国から特別に取り寄せていますの」

「ブーレン……? 東の地アーゼルにそのような国はないはず」

「ブーレンは、西の地の国ですから、ご存じないのも当然です」

「西の……?」


 思わず耳を疑った。

 ナディアが知ったらどう思うだろう。

 蒼き国は閉ざされた国だというのは周知の事実だったはずだ。蒼き国が西の地ヘーベルと国交があるのならば、ヘーベルに赴くとき有利に働くかもしれない。

 ――ナディアの望みを叶えるためには、なんとしてでも蒼き国を保護区としなければならないだろう。

 そう考えるだけですっと背筋が寒くなるようだった。渇きを覚えたカルアは、二口、三口と含み喉を潤していく。


「カルアさま、花の蜜を加えるともっとコクが出て、まろやかになりますの」


 ジャス茶を気に入ったらしいカルアの様子を好ましげに見つめていたアレイが声をかけた。

 瓶から琥珀色の蜜をすくうと、カルアの碗に垂らした。匙一杯にも満たない蜜が、かき混ぜると溶け消えていく。

 アレイに促され、再び口をつけたカルアの目が驚きに見開かれる。


「まったく違う味みたい……!」


 つい普段の調子で声を上げたカルアは、しまったと言いたげに頬を赤くした。


「取り乱して申し訳ありません」

「まあ! 謝らないでくださいませ。わたくしは、そちらの話し方のほうが好きですわ。親しみやすいですもの。せめてわたくしの前だけは、お気を張らずに気楽になさってくださいね」

「……そのようなことを言うのは、あなたで二人目です」


 カルアは少し遠くを見つめるような目でアレイを見上げた。


「一人目は教祖さまでいらっしゃいますか?」

「いいえ、ナディア様でなく……私の唯一の友であった……いえ、この話はよしましょう」


 彼女のことを思い出すとき、カルアの胸にはいつも鈍い痛みが走る。

 ナディアの次に大好きだった彼女。

 ナディアの寵愛を一身に受けていたせいか、なにかと敵の多かったカルアにとって唯一気が置けない存在であった。

 ――ハーミア。

 彼女は今、何をしているのだろ。

 いや、今は彼女のことを思い出しているいとまはない。素早く切り替えたカルアは、アレイからもらった情報を思い返していく。


「聖ラザス教が国教でないのならば、ナディア教もつけいるすきがあるということですね」


 疲れを癒すほどよい甘さに、カルアの頭も冴えていくようだった。力強く輝く双眸には、期待が満ちていた。


「それは……」


 無邪気なまでに瞳を輝かせるカルアから視線を逸らしたアレイは、悲しげに首を振った。


「ああ、なんておかわいそうなお方。幼子ですら知っている周知の事実をあなただけはご存じではないのですね。いいえ、ナディア教の教徒はみな耳を塞ぎ、目を覆うのだわ。醜いものだけ避けるように、残酷な事実を受け入れまいとするように……」

「アレイも誤解しているのですね。聖女ナディアの教えは人の心に癒しを与えるものであり、悪影響を及ぼすものではありません。なぜこの国の者はこうも頑ななのです? 聖ラザス教を受け入れたのならば、聖女ナディアの教えも受け入れられるはずです。聖女ナディアならば、私たちに平穏を与え、苦痛から救ってくださるというのに」


 アレイは何も反論せず、ただ憂えた目でカルアを見つめるのだった。

 会話の途絶えた室内に、気まずさだけが漂う。

 カルアは自分の考えが正しいと信じて疑わなかったし、アレイはアレイで思うところがあるのか思案しているような顔つきで給仕をしていた。

 そんな居心地の悪さから逃げ出すようにジャス茶を飲み干し、しっとりとしたナッツ入りの焼き菓子を口にしたカルアは、お茶の時間を早く切り上げた。そのまま、部屋を飛び出す。

 アレイは片付けがあるのかなにも言ってこなかった。ただ、いってらっしゃいませ、と控えめな声だけが耳に残っている。

 もしかしたら傷つけてしまったのかもしれない……。

 わずかな罪悪感は、ナディアのことを考えた瞬間吹き飛んだ。ナディアを快く思っていないアレイを腹立たしく思った。

 無意識に胸元を探っていたカルアは、そこに大切な首飾りがしっかりとあることを確認してから安堵の息を吐いた。


(私はナディア様のおかげで命を救われたのよ。ナディア様を悪く言う者はだれであろうと許しはしないわっ)


 カルアにとってナディアは神に等しい。

 いや、神そのものだ。

 ナディアが女神でないとするのならば、この世に神など存在しない。

 ほかの神などいらない。

 ナディアさえいればよいのだ。

 世界をすべてナディアの手中に収め、ナディアは真の神となるのだ。

 そのときのことを思い浮かべるだけで気分は高揚とし、浮き足立つようだった。

 そしてその補佐をする自分の姿を思い描きうっとりと酔いしれる。ナディア教が大陸全土の国教となり、一神教を作り上げたのなら、災いも争いもすべてなくなるだろう。

 それこそ夢物語とだれもが諦めていた空論が実現するのだ。

 その夢を現実とする第一歩が、この国にナディア教を広めることである。

 この国の国主がナディア教となれば、西を制覇するのも近いだろう。蒼き国と国交のある国が落ちるのは容易いかもしれない。

 そうしたら、ナディアからの信頼は以前にも増して深まるだろう。

 今でも十分過ぎるほどの関係ではあるが、仕事面で認めてもらうのは、格別の喜びなのだ。

 ナディアの夢は、ハルヴィのようにナディアの右腕となることだ。

 そのためには、ここで躓けない。

 なんといってもカルアはナディアに成し遂げてみせると誓ったのだから。


「そこで何をしている」


 鋭い声に足を止めたカルアは、すぐ側にいた人物に気づいて驚いた。

 いくら考え事をしていたからといって、気配で気づけぬはずがなかった。気配を殺していたのだろうか。

 わずかに距離をとったカルアは、その人物を注視すると、少年王の側に青年だということに気づいた。

 年の頃はアレイとそう変わらないだろうか。

 王の側にいたときは落ち着き払っていたせいか、二十半ばにもみえたが、こうして近くで観察するともっと若そうな感じであった。


「陛下が許可を与えたとはいえ、勝手にうろつかれては困るな」


 きらりと硬質な光を放つ眼鏡に、しっかりとなでつけられた明るい茶色の髪が知的というよりは神経質そうな雰囲気をまとっていた。


「名前を伺ってもよろしいですか?」


 カルアがそう尋ねると、ふんっと鼻で笑った青年は、嘲るような光を水色の双眸にのせた。


「貴様に名乗る名などない。さっさとこの国から失せるといい。陛下の温情がなければ、その身を八つ裂きにしてナディアに送りつけてやっただろうに。せいぜいこの国に留まる間は大人しくしていることだ。ナディア教の教徒を恨んでいる者は多いぞ。――だれか、伝導師を丁重に部屋までお送りしろ」


 青年の呼びかけに、素早く反応した兵士が駆けてきた。そのまま青年に畏まると、一礼してからカルアに向き直った。


「さ、参りましょう」

「あの方はどなたです?」


 カルアに話しかけられ、少し嫌な顔をした兵士であったが、間近に迫るカルアの美貌に気づくとだらしなく口元を緩めた。

 しかし、すぐに空咳をして、恥じるように目元を赤く染めた。


「国王陛下の兄君であらせられるゼフィスト・ドゥイ・ハーゼスト様です」

「兄君でいらっしゃるのに、弟君が王位を継がれたのですか?」

「そうです」

「なぜです?」


 カルアが自然な疑問をぶつけると、兵士の顔が強ばった。話してもいいのかと揺れる双眸には逡巡がある。結局口にするのは拒んだようだった。

 彼は答えず、話は終わりだとばかりに少し早足でカルアが使用している客室まで案内していった。

 そのまま儀礼的に去っていく後ろ姿を見送ったカルアはため息を飲み込んだ。


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