序章~獣族(けものぞく)の娘~
灰色の雲が太陽を覆い隠し、地上に影が差す中、その影に紛れるように走る親子の姿があった。
険しい獣道を抜け、しっかりと舗装された街道に出ると、子供の後ろを走っていた女の顔に安堵が浮かんだ。怪我を負った彼女にとって足場の悪い獣道は走りにくかったのだ。顔や手足に擦り傷をつくり、毛皮を真っ赤に染めた女の顔色は悪い。
だんだんと広がる子供との距離。
足取りもおぼつかなかった女の体が、ついに力尽きたかのように傾ぎ、ゆっくりと地面に倒れた。血の気を失った顔色には、脂汗が滲んでいた。
「かあさま!」
物音に気づいた幼子が駆け戻り、叫んだ。
幼い少女の顔は、他人の血で汚れ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。土と葉っぱが頭や毛皮の服についていた。それを払ってあげたくて、女はわが子に手を伸ばそうとしたけれど、聞こえてきた怒号にハッと顔色を変えた。
「お逃げっ! さあっ、早く!」
叱咤するように鋭く叫ぶ母親。
「でも……っ」
離れたくないと、母のそばがよいと訴えるわが子に、気を張っていた女の目が潤む。それでも子供のように涙は見せなかった。
「わたしの分までお生き」
「いやっ、やあぁぁっ!」
駄々をこねる幼女。
無理もない。
まだ五歳になったばかりの彼女は、獣族の厳しい掟すら知らなかった。獣族の子供は六歳まで真綿にくるむように大切にされて育つのだ。
けれど今の状況で甘やかすわけにはいかなかった。
女は最後の気力を振り絞って立ち上がった。とたんずきりと傷む肩と背中。刺さった矢は抜いたが、止まらずに流れ続ける真っ赤な血が地面にぽたりぽたりと滴った。
「ここは母様が引き受けます」
女は、突き放すように幼女の背を押す。
「かぁさま……」
「カツェラ、忘れないでおくれ……わが一族の誇りを……お前は最後の光……」
女はわが子の顔を脳裏に刻みつけるようにじっと見つめた。
そんな母親の常とは違った雰囲気を感じ取ったのか、まだ駄々をこねようとしていた幼女は、唇をぎゅっと噛みしめて母親の言葉を聞いていた。
「さあ! 走りなさい! お前は……お前だけは生き残るんだよ。誇り高き獣族の血を絶やさないでおくれ!」
女の強い声に促されるように、ぽろぽろと涙を流しながら、幼女はこくんと頷いた。彼女も母親の姿を焼き付けるかのようにじっと見つめた。そしてついにゆっくりとながらも母親に背を向けて歩き出した。
そんなわが子を気がかりそうに見つめていた女だったが、振り切るように首を振ると、ふらつく足でしっかりと地面を踏み、襲いかかってくる敵に神経を集中させた。
殺気を帯びた複数の気配が近づいてくる。彼らは自分の血の痕を追ってきたのだろう。
「いたぜ! あいつらで最後だっ」
最後、という言葉に女は表情を険しくさせた。
きっともう集落にいた仲間は絶えたのだろう。
――敵襲に気づいたときにはもう遅かった。用意周到に計画されていたのか、飲み水に痺れ作用のある葉が投げ入れられていたのだ。今日が水なりの神をたたえる日ということあり、いつもよりずっと警戒心が緩んでいた。
彼女と幼い少女だけは山に山菜を採りにいっており、酒や水を飲む瞬間がみんなより遅かった。それが功を奏したのだろう。異変に気づき、口に含まずにすんだ。
満足に体が動かせない獣族を嘲るように、肌が黒ずんだ集団が襲いかかってきたのは、その直後であった。鋼の体と獣のような強さを誇る彼らも、力を発揮できず次々と殺されていった。二人はそんなおぞましい光景が広がる中、なんとか逃げおおせたけれど、女はわが子を守るために深い矢傷を負った。
「カツェラ……わたしの愛おしい娘……」
死ぬかもしれないというのに彼女の声は穏やかだった。もともとこの傷で生きられるとは思っていなかったのだ。それでもどうせ失う命ならば、わが子を守って散りたかった。
女は、ぐっと地面を蹴り、肌が黒い男たちに向かっていった。
素手とはいえ、彼女の拳は重く、骨が折れる乾いた音が響き渡った。悲鳴をあげて折れ曲がった腕を見つめる男。怪我がなければもっと力を発揮できただろう。
女は手を緩めなかった。突き出した拳が槍を構えた男の臓腑をえぐり、彼は血反吐を吐きながら倒れた。ひとり、またひとりと着実に地面に叩きつける女であったが、敵の数が多すぎた。
「……ぅ」
遠くから放たれた矢が女の胸に命中した。
「かさあま……!」
女を気にし、振り返りながら歩いていた幼女が、がくりと倒れる女に気をとられた刹那、ほかの者が射った矢が彼女の右足首を貫通した。
「あ……あぁ……――っ」
炎が突き刺さったような熱さに、幼女の体が倒れそうになる。骨をも貫いたのだろうか。あまりの激痛に息が詰まった。
「駄目っ、お前は生きるのよ……生き、……ぅっ、」
悲鳴のような女の声を耳に入れ、ぐっと持ちこたえた彼女は、片足で踏ん張った。聞こえなくなった声が気になってちらりと振り返ると、そこには、肌の黒い男たちに襲われ、ぴくりとも動かなくなった母の姿があった。
真っ赤な血が地面に流れていく。
母親の血だ。
目を大きく見開き固まった彼女の胸の奥からせり上がってくるのは、恐怖か悲しみか。わけがわからないながらも、母の死を漠然と受け止めていた。
「ぅあぁぁっ……、かぁさ、……ぁさ……ん!」
右足を動かすだけで、脳天を鈍器で殴られたかのような痛みが走り抜ける。それでも幼い子供は泣きながら耐え、右足を庇いながら走り出した。『生きなさい』という言葉だけが脳裏をぐるぐると回っていた。
何本もの矢が頬や脇をかすめていく。
右足を庇いながら全力で走るのは難しく、途中何度も転びそうになった。後ろから「待て!」「捕まえろ!」と男たちの荒々しい声がどんどん近づいてくる。足の速さでは勝てているようだったが、そろそろ彼女の体力が尽きそうになっていた。
緩やかな斜面を登ると、平たい野原が見えてきた。広い道はそのまままっすぐ続いていた。
日が陰っているせいか、どこか精彩を欠いた緑の芝生を目に入れた幼女は、意識が遠のくのを感じた。もう駄目かとついに観念した彼女の耳に、柔らかな声が聞こえた。
「どうしたの? まあ、大変! だれか――!」
駆け寄ってくる人の気配に、母を殺した人たちかと身構える幼女を、温かい腕が包み込んだ。
「なんて酷い傷! 怖がることはないわ。わたくしはあなたの味方よ。かわいそうに……。怖かったわね、痛いでしょ? もう、大丈夫よ。今、お医者様がいらっしゃるわ」
「あ……ぅぁっ」
そのとき、分厚い雲が去り、太陽がようやく覗いた。陰っていた大地が輝きを取り戻していく。
「もう安全よ。あなたをこんな目に遭わせた者はどこにもいないわ。大丈夫、安心なさい」
幼女は太陽が顔を出したことに気づかなかった。
かすむ目の先に映るのは、光に包まれた女性だった。それが陽光だとは気づかない彼女は、目映い光をまとう女性を見て驚いた。
女神さまだ……!
獣族が狩りに赴くときに祈りを捧げる戦女神のようであった。戦女神は勝利を呼ぶ女神だが、もう一つの顔があり、それは慈愛に満ちた愛の女神であった。包み込むような慈しみにあふれた姿が、彼女に重なった。
女神さまがいてくださるならもうなにも怖がることはない。ふっと緊張を解いた彼女は、小さく微笑むとようやく意識を手放した。
次に目を開いたときも女神さまがそばにいることを願って。




