6 heavy rain―吉川悟―
朝のピークも一段落した頃、店の電話が鳴った。
「はい、CafeCrossroadです」
「西岡です。お忙しいところすみません。マスター、あの…今日なんですけど…」
「うん」
いつもハキハキと喋る西岡さんにしては妙に歯切れの悪い話し方と掠れた声で、今日入れなくなったことと、酒井さんに代わってもらったことを告げる。
「わかった。気にしなくていいよ」
「…すみません。よろしくお願いします」
また今度、と言って電話を切った。
その時は、この電話が長い一日の始まりだとは思わなかった。
昼過ぎから雨が降り出した。
雨の日は客足が遠退くので、店は暇な時間が増える。いつもなら混雑する夕方の時間帯も、今日はたった一人しかいない。
「こう雨に降られると、商売上がったり」
「そうですね。明日は晴れてほしいものです」
「本当」
そのたった一人のお客様、桃井さんと、ぼやき混じりの雑談をする。上の階で占い師をしている彼女は、休憩がてらドリンクを飲みに来ることが多い。雨が降ったりしてお客様が少ない日は、一日に何度もってのも、珍しくない。
「話変わるけどさ、今日西岡ちゃんいないの?」
「彼女は休みです。朝連絡がありまして」
「何だ。西岡ちゃんが探してたCDあったから持ってきたのに」
つまらなさそうに、桃井さんは温くなった紅茶を一気に飲んだ。
「電話があった時声が掠れていましたから、風邪をひいたのかもしれません」
「あー、流行ってるからね」
「…違います」
バックヤードから出てきた酒井さんが、口を挟む。
「美里ちゃん、今日は友達のお通夜があるみたいです。落ち込んでました」
「そっか…」
それなら、元気のない声だったのも頷ける。
弔事はただでさえ気が重いのに、雨は更に気を滅入らせる。大切な誰かを亡くしてぽっかり空いた穴に、寒さと暗さは、より傷を抉って拡げるのだ。
せめて、雨がやんでほしい
ささやかな願いは叶いそうもなく、窓の向こうで雨は更に激しさを増していた。
早く帰ろうと、急かされるよう帰路につく。
こんな日は、暗い雨と闇を分厚いカーテンと灯りで閉めきって、温かく居心地の良い部屋でゆっくり過ごしたい。幸い明日は店は休みで、めぼしい予定もない。そろそろ三十路にさしかかろうとしている身としては枯れ過ぎだと、我ながら思うけども。
駅を通り抜け、反対側の通りに出る。途中、アパートへの近道をしようとメモリアルホールの駐車場を横切って、ふと、西岡さんのことを思い出した。
お通夜の会場がここなのかはわからないけど、ここでも誰かの弔事があったらしい。倉田家と書かれた紙が、風に揺れている。
車が一台、追いこしていく。ライトが、夜の闇に溶け込んでいた人影を浮かび上がらせる。
「え…?」
思わず声が上がる。何重もの雨の帳の先、傘もささず立ち尽くすその人。車のライトに照らされて浮かび上がった横顔を、自分は知っている。
「寺本さん!?」
気がつけば駆け出していた。水溜まりに足を突っ込んだけど、そんなこと今はどうだっていい。そんなもの、家に帰って乾かせばいいのだ。
「寺本さん!」
まだ何メートルか先の寺本さんに大声で呼びかける。だけど、応えはない。
近づいて肩を叩く。それでようやく、寺本さんはゆっくりと振り向いた。
「……吉、川さん?」
抑揚を欠いた、無機質な寺本さんの声。それなのに、泣きたいのを堪えているようにも聞こえた。
「…どうして、ここに?」
「アパートがこっちなんだ。それより、風邪をひくからまず雨宿りしないと」
そう言ったけど、寺本さんはその場を動こうとしなかった。
「寺本さん?」
「…平気、です。大丈夫ですから…」
そんなわけない。夜遅く、大雨が降っているのに傘もささず女の子が立ち尽くしているのを、ほっておけるわけがない。
寺本さんに何が起きたのかはわからない。でも、何か…それも余程辛いことがあったはずだと考えたところで、ふいに今朝の西岡さんの様子と、夕方の酒井さんの言葉が頭を過った。
改めて寺本さんを見る。ぐっしょり濡れたコートの前は留められていなくて、隙間から雨に打たれて黒さを増したフォーマルのワンピースが見えた。
瞬間、すべてが繋がっていく。
「…寺本さん。もしかして、今日誰かのお通夜…」
勘違いだと思いたい。だけど、その残酷な答え以外に思いつかない。
「…はやとのお通夜、でした。あいつ…昨日、事故で」
「そんな…」
こんな唐突に途切れるなんて。
寺本さんのことも、その彼のことも詳しく知ってるわけじゃない。それでも、二人が本当に想いあっていたのは、数回、ほんのわずかな時間会っただけでもよくわかった。それなのに、もしかしたら、本当に家族になってこの先何十年も続くかもしれなかった二人の幸せが、こんな理不尽に引き裂かれるなんて。
差し出したはずの手は、寺本さんの手を掴んで雨宿りの出来る場所へ連れて行くことも、せめてこれ以上濡れないよう傘を差しのべることもできなかった。たった数歩先の距離がひどく遠い。何もできないもどかしさが渦巻いて身体を焼く。だからといって、立ち去ることもできない。
ただ、寺本さんを助けてと、誰に向けていいのかわからないそれを祈ることしかできなかった。
「……り」
どれだけ立ち尽くしていたのか。
永遠とも、一瞬ともとれる時間の後、突然その変化は訪れた。ふいに近づいた人の気配。見えないその人は何かを言っていたが、雨音に掻き消されて自分には聞き取れなかった。
「……」
はらはらと、雪のように何かが降ってくる。
雨とは違うそれが、透明なビニール傘に貼りつく。柔らかな色合いの、この季節にはまだ少し早いはずの春の花たち。
寺本さんもその奇跡に驚いたよう顔を上げて、目を見開く。
「はや、と…?」
温かな何かが横を通り過ぎていく。
もう見えない。言葉を交わすことも、触れることもできないその人。彼だという確証はない。この奇跡を起こす力があるのかも、春の花という理由もわからない。だけど、彼以外にはありえない。
花の雨が感情の堰を切らせたように、寺本さんが泣きだした。嗚咽が、雨音に掻き消されることなく耳に届く。
涙をはらうことは、躊躇われた。
それを許されているのはたった一人。自分じゃない。だけどその人の為に、寺本さんは泣いている。
今は泣いたほうがいいのだろう。彼の為にも、寺本さん自身の為にも。
せめてもと、寺本さんの上にそっと傘をさす。寺本さんが自分から動けるようになるまで、待つつもりだった。
むしろ中書き
ここまで読んでくださってありがとうございます。
話の構成としては、0~2がプロローグ。3~6が第一部。これから第二部になります。
時間もちょうど折り返しになっていきますので、今後もよろしくお願いいたします。