5 memorial―寺本紫―
「いらっしゃいませ」
聞こえてきたのは、美里の声。
カウンターの内側に美里はいて、小さく手を振ってきたので私も振り返す。
美里の声で誰かが来たことを知ったからか、カウンターの奥、バックヤードから吉川さんが顔を覗かせた。私を見て、少し驚いた顔をしてる。
そりゃあ驚くだろう。冬休みだけは、大学も高校までとそう長さは変わらない。とっくに学校が始まってるこの時期に、今日は休日だけど、私がこっちにいるのだから。
「寺本さん、どうしたの?」
「明日成人式なので帰ってきたんです」
「!…そっか」
納得したように、吉川さんは頷く。
「もうそんな時期なんだね。おめでとう」
「ありがとうございます。成人したって実感は、あんまりないですけど」
成人式は明日、市の文化会館で行われる。名前ぐらいしか知らない市長や、名前も知らない市議会議員や偉い人の話が続くのはげんなりするけど、懐かしい友達とか振袖とか、楽しみもある。
「西岡さん、今日はそろそろ上がりだよね」
「はい。五時からは加藤くんです」
「寺本さんも西岡さんも、これから三十分くらい時間とれる?」
「大丈夫ですけど、紫は?」
「私も大丈夫です」
「よかった。成人のお祝いに、二人にとっておきのコーヒーを出すよ。…あ、寺本さん誕生日過ぎてるよね」
「?誕生日は八月ですけど」
何だろう。未成年だと問題あるのかな。
「お楽しみに。西岡さんも、上がっていいから」
「わかりました」
それきり、吉川さんは笑ってばかりでとっておきのコーヒーがどんなコーヒーかは答えてくれなかった。
「ね、紫はどんなやつ?」
「私は薄紅色の絞り。何ていうか…雲みたいな形の柄」
「何だ。名前通りの紫じゃないのか」
「紫は柄の一部に入っているぐらいかな。美里はどんなの?」
「若草色。色々細かい柄が入ってる」
五時になってバイトが終わった美里と二人、カウンターで吉川さんの言うとっておきのコーヒーを待つ。
話すのはやっぱり、明日着る振袖のこと。美里も私と同じで、母から譲られた振袖を着るようだ。
「お待たせいたしました」
とっておきのコーヒーが用意できたらしい。吉川さんの呼びかけに、私も美里もパッと顔を上げた。
白一色のシンプルなコーヒーカップとソーサー。それとは対称的なコーヒーの色。互いを互いが引き立てるような配色。
パッと見は、普通のコーヒーにしか見えない。香りだって…変わった感じはしない。ただ、普通ならソーサーに添えられているはずのスプーンが、先端が下に折れてるという変わった形で、既にカップのふちにかけられていた。そのスプーンの上には、角砂糖が一つ。
角砂糖の上に、吉川さんは小さなビンに入った液体を振りかける。掌で隠れてラベルは見えなかったけど、ツン、と、アルコールの香りが漂ってきて、角砂糖に染みたのがお酒だということはわかった。
これから何をするんだろうとわくわくしながら見ていると、吉川さんはライターを取り出し、他のお客さんに声をかけて照明を消した。
カチッと音がして、ライターがつく。小さなオレンジの火が、角砂糖に近づけられた。
「…二人共、おめでとう」
青白い炎が、漆黒の水面に踊る。
「わあ…!」
綺麗。コーヒーカップの上の青い炎に照らされて浮かび上がる店内は幻想的で、普段の明るい雰囲気とはまったく違う。
熱で角砂糖が崩れて、じりじりと溶けていく。お酒と砂糖の甘い香りが、鼻をくすぐる。
「カフェロワイヤルか…」
突然後ろから声をかけられ、驚いて振り返ると二人の男の人が立っていた。
「三國さん、台詞を盗らないで下さい」
「すまんすまん。かのナポレオンが好んだコーヒーだな」
吉川さんは、誰かわかっているらしい。青い炎に照らされた顔は、少しだけ悔しそうだ。
「まだ言いますか」
「マスターが教えてくれてな」
「私はもう、マスターじゃないですよ」
もう一人の男の人が、口を挟む。
どことなく声に聞き覚えがあるけど、誰か思い出せない。ただ、その声が妙に懐かしい。
「お二人共、カフェロワイヤルは、ブランデーの染みた角砂糖が溶けたら、コーヒーに入れて出来上がりですよ」
「岡部さんまで」
「すみません。ここに来るとつい昔が懐かしくて。もうあなたの店だとわかっているんですが」
その言葉で、もしかしてと思った。
それが呼び水となって、思い出がいくつも浮かんでくる。遠い昔、ここで過ごした日々。絵本と、春と夏はオレンジジュースかアイスミルク。秋と冬はココアかホットミルク。Crossroadとは違う、落ち着いた雰囲気のお店で、隣にいた大好きだった人。カウンターの向こうにいた人に教わった、お店の名前でもある英語は…
「そろそろ明かりをつけますね」
スイッチの音と共に、店内がいつもの明るさを取り戻した。
何もかもが眩しい。明るさに目が慣れていないだけじゃなくて、さっきより世界がきらきらして見える。
「すみません」
呼び止めた。何から話せばいいのかまだよくわかっていないのに、思いだけが先走って、支離滅裂な言葉が口から勝手に出ていく。
「もしかしてメモリアル、ここの前のお店の方、えーと…マスターですか?違ってたらすみません」
「ええ、メモリアルのマスターだった岡部と言います」
「やっぱり!あ、私は寺本紫と言います。小さい頃おじい…じゃなかった、祖父の寺本康司と何度かお邪魔したことがあって」
「寺本さんのお孫さんでしたか。覚えてますよ。確か…私と彼が話している間、あなたは隣でニコニコしながら絵本を読んでましたね」
「はい」
ここに来る前に、駅前の本屋で新しい本を買ってもらうのも、楽しみの一つだった。
「彼が亡くなって、もう六年でしたか」
「そうですね。私が中学生の時だったので」
「先程、明日成人式だと小耳に挟んだので、差し出がましいですが私からもお祝いを言わせてください。あの頃も可愛かったですが、今は見違えるほど綺麗になられた。こうしてあなたに言われなかったら、気づかなかったでしょう」
私だって、この場所じゃなかったら気づかなかった。小さい頃だから、名前どころか、岡部さんの顔だってはっきり覚えてたわけじゃない。この瞬間がなければ、記憶の片隅に埋もれたまま、多分一生思い出さなかった。
思い出がきっかけで、ここにいる。断たれて、断たれたことにすら気づかないままだった縁が、繋がっていく。
「おめでとうございます。寺本さんも、あなたの振袖姿を楽しみにしていたと思いますよ」
「…ありがとうございます」
岡部さんの言葉につい俯いて答えてしまったのは、溢れ出して隠しきれない感傷を、少しでも隠そうとしてのことだった。