4 tea time―吉川悟―
「ありがとうございました。またお越し下さいませ」
お客様が扉を開けた途端、むわっとした空気が店内に入り込む。
扉はすぐに閉まり、蒸し暑い夏の空気は店内の冷房で冷やされ、混ざりあって気にならなくなる。だけど、その一瞬一瞬と、ロールカーテンの隙間から差し込むギラギラした光が、今年は猛暑だと激しい主張を繰り返していた。
北に位置し、夏でも比較的過ごしやすいはずのこの地方も、今年はそうもいかないようだ。日中はこれでもかと太陽が照り付け、夜は夜で寝苦しい熱帯夜が続く。節電だエコだといってもやはり限界があるこの仕事にとって、電気代がかさんでいくこの状態はなかなか頭が痛い。
「外に出たくない…」
先程の夏の洗礼を受けたらしい和樹くんが、カウンターに突っ伏して呻く。周りには、よく持ってこれたなと思うほど大量の問題集と参考書が積み上げられている。
「六時まで勉強するって意気込んでなかったかい?」
「…しますよ。だけど、外に出たら今みたいな日光と熱風が待ってると思うと、憂鬱になるんです」
身体を起こし、はあ、と心底うんざりした様子でため息をつく和樹くんの前に、オレンジシャーベットを置く。その時ちらりと見えたノートと赤い過去問には線や数字、単語が散りばめられていて、彼の試行錯誤が見てとれた。
和樹くんが不思議そうにシャーベットを見る。
「マスター?俺、シャーベット頼んでないですよ」
「頑張ってる受験生に差し入れ」
誰から、はわざと曖昧にしておく。
この差し入れは、自分からではない。シフトに入っていない時を狙ってこの店に勉強しに来る和樹くんへ、お姉さんから頑張れのエール。照れ臭いし、お互い素直じゃなくて喧嘩になるから秘密にしてほしいと言われているので、差出人が誰かは黙っている。
「…そういうことなら、ありがたくいただきます。やっぱ頭使った時は甘いものですよね」
そう言って、嬉しそうに和樹くんはシャーベットをすくう。明日彼女が来たら、喜んでいたと伝えておこう。
…カラン
来客を報せるベルの音が耳に届く。振り向いていらっしゃいませと声をかけて、知った顔に思わず笑みが増した。
「寺本さん」
「こんにちは。帰ってきました」
そう言って、寺本さんも笑う。
春から五ヶ月。もうそんな時期か。以前より少し日に焼けた寺本さんは、溌剌とした印象がより強調されていた。
トランクを受け取り、レジ横に置く。見た目よりも重かった。
「…西岡?」
「へ?…あっ!寺本先輩」
カウンター席に座ろうとしていた寺本さんが、和樹くんに声をかけた。声をかけられた和樹くんは、目を丸くしている。
「先輩帰ってきてたんですか?」
「うん。いつもは夜行なんだけど、今日は気分変えて朝のにしてみた。美里は元気?」
「姉ちゃんは相変わらず俺に対しては傍若無人です…」
寺本さんと西岡さんは友達だったけど、和樹くんとも面識があるとは思わなかった。話している内容からすると、二人の間にも交流があるように思える。
メニューとお冷やの準備をして、寺本さんの席に運んだ。二人は部活の話をしていた。西岡さんも和樹くんも同じ高校だから、部活で先輩後輩だったのかもしれない。
「吉川さん、注文いいですか?」
「ええ、どうぞ」
「アイスレモンティーをお願いします」
「かしこまりました」
喉が渇いていたのだろう。アイスティーを準備している間に寺本さんはお冷やを飲みほしていたから、代わりも一緒に持っていくことにした。
「ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞ」
グラスを交換して戻る。テーブル席のお客様から追加の注文が入ったので、急いでその席に向かった。
…カラン
カウンターで作業をしていると、ベルが鳴った。顔を上げ、入ってきた背の高い青年にいらっしゃいませと声をかける。
青年は誰かを捜すようにあちこちに視線を走らせてから、カウンター席へと歩き出した。その顔は嬉しそうに笑っていて、本を読んでいた寺本さんの肩を叩く。
「お待たせ」
振り返って青年を見た寺本さんの顔にも、笑みが浮かぶ。
「遅い。もう十分たったらハヤト置いて帰ろうと思ってた」
「ごめん。バイトがちょっと長引いちゃって。あ、まだ言ってなかった。おかえり、ユカリ」
「…ただいま」
カウンターとバックヤードの境のような所にいたからだろう。二人の様子はよく見えた。見てるこちらも心が温かくなるような、幸せな、甘い雰囲気。
そして、そんな二人をこっそり見る和樹くん。色んな感情がない交ぜになって翳る、複雑な表情。
そういうことか、と、妙に納得してしまった。
寺本さんと話していた時の和樹くんは、何というか…普段よりもキラキラしていた。その時は理由まで考えなかったけど、この様子を見れば、一目瞭然。
人を好きになるのは難しいな、なんて、月並みな言葉しか出てこない。寺本さんは和樹くんの事が好きだろうけど、それは彼と同じ好きじゃない。あくまで、友人の弟、後輩としての好きでしかないだろうから。
和樹くんもわかってはいるのだろう。好きになった人にはもう大切な人がいて、そこに和樹くんが入り込める余地は無い。だけど、燻り続ける想いは何かきっかけがあれば簡単に燃えて、心を焦がす。本当に、難しい。理屈とか道理で割り切れないから。
そんな事を考えている内に、帰り支度を終えた寺本さんは席を立っていた。その手にあるのは、二枚の伝票。
「先輩?」
「おごり。夏休みだってのにだらけず頑張ってる受験生に、先輩からささやかなプレゼント」
ひらひらと二枚の紙片を揺らす寺本さんを追いかけるように、レジに向かう。和樹くんに気づかれないようオレンジシャーベットは西岡さんからの差し入れだと伝え、ドリンク代だけを受け取った。
「持つよ」
「ありがと」
レジの横にある寺本さんのあの重いトランクは、やはりというか、当然のように彼が持つ。寺本さんが扉を開けて、彼を先に行かせる。
「ありがとうございました。またお越し下さいませ」
小さくなっていく二人の背中に声をかけて、仕事に戻った。