3 warm―寺本紫―
「いってきます」
リビングでテレビを見ている母に廊下から声をかけ、玄関に向かう。
靴を履いていると、隼人くんによろしくと返ってきた。今日は人と映画を見てくるとは言ったけど、それが隼人とは言っていない。なのに、この人は何で相手が隼人だと知っているのか。
時間は十分にある。だからそれを問いただそうかとも思ったけど、やぶ蛇になるのも嫌なのでやめた。鎌をかけられただけと思うことにして、さっさと駅に行くことにした。
電車で十五分、四つ先の駅で降りる。
特急も止まり、別の路線との乗り換えもあり、高速バスの乗り場もあるここは、この辺りだと一番賑やかな場所。
勿論外も賑やかで、辺りには幾つもの会社や店の入ったビルが並んでいる。その中の一つに入って、エレベータでシネマのあるフロアでチケットを二人分買った。
映画が始まるまで約一時間三十分。バイトを終えた隼人と合流するまでは一時間。
それまで特に予定はない。適当に辺りを見ていようと思っていたけど、電車で読んでいた本がちょうどいいところで、続きも気になる。
一瞬迷って本に軍配が上がり、カフェに行くことにした。幾つか浮かんだ候補の中でそこにしようと思ったのは、小さな頃の思い出と、バイトしている友達がいるから。
早く行こうと足早にシネマを抜け、外に出るためエレベーターで下に降りた。
「いらっしゃいませ」
軽やかなベルの音。それに一拍遅れて、優しげな男の人の声が続く。
喫茶店Crossroadの店内は人で賑わっていた。それぞれが好きなように、午後のひとときを楽しんでいる。
カウンターは空いていなかったので、窓際のテーブル席に座った。
「こんにちは」
メニューとグラスを持ってきた吉川さんに私もこんにちはと挨拶を返して、メニューを開く。
「珍しいですね、寺本さんが昼にいらっしゃるなんて」
吉川さんの言葉通り、私がここに来るのは朝ばかり。夏も冬も、二週間前に帰ってきた時も。そもそも、帰省した直後以外にここに来るのが、初めて。
「朝以外って初めてなんですよね。今日は、映画が始まるまで待とうと思って」
「そうでしたか。ご注文はお決まりですか?」
「はい。ホットカフェオレで」
「かしこまりました」
十二月の時ホットミルクと迷って、この前帰ってきた時に頼んだカフェオレが、今のお気に入り。また飲みたいなと思ったのも、ここを選んだ理由の一つだったりする。
鞄から文庫本を出して、小説の続きを読む。神話を元にしたファンタジーは最終章にさしかかり、隠されていた真実や伏線が次々に明かされていく。未来は、主人公の青年の決断に委ねられて…
「お待たせいたしました」
吉川さんに声をかけられて、はっと我に返った。
「ホットカフェオレです。ごゆっくりどうぞ」
テーブルにカフェオレと伝票を置き、吉川さんは一礼してカウンターに戻っていく。
温かな湯気に誘われるように、カフェオレに手を伸ばした。マイルドになった苦みとかすかな甘みが、じんわりと体を中から温める。
窓際の席ということもあって、ガラス越しの陽射しがぽかぽかと暖かい。窓枠に置かれたチューリップの鉢植えが、温室の中にいるような気にさせる。まだツボミは堅そうで、花が開くには時間がかかりそうだ。何色の花が咲くのだろうか。
カフェオレをもう一口飲んでから、ページに視線を落とす。物語は怒涛の展開を見せた後、物悲しくも優しいエピローグに入る。主人公の青年が一人旅立つ場面で、終わった。
ほう、と一息をついて文庫本を閉じる。壁にかかった時計を見れば、針はそろそろ時間だということを示していた。
鞄に本をしまい、代わりに財布を取り出す。ふいに、前に人の気配を感じて顔を上げて、そこにあった思わぬ顔に固まる。
「ごめん。待った?」
笑いかけてくるのは、今日待ち合わせの相手。映画館で、待ち合わせたはずの。
「通りがかったら見かけたからさ、ちょっとびっくりさせようと思って」
行こう、と続いた隼人の言葉に促されるように立って、レジに向かう。
お金を吉川さんに払い、先に外に出ていた隼人の左に並んで歩く。途中、隼人が何かを思い出したように鞄から細長い箱を取り出した。
「あげる」
「何?」
和紙のようにごわごわした手触り紙の蓋を開ければ、満開の春の花をガラスにして繋いだような、ネックレス。
「そこでやってるフラワーフェスタの特別賞」
「隼人が当てたの!?」
「うん。後ろに並んでた女の人達の視線が凄かったよ」
そりゃあそうだろう。フラワーフェスタ自体は、毎年この時期にやってるイベント。花にちなんだ小物をはじめ、種や切り花なんかをその場で買うこともできるし、駅周辺で買い物したら貰える券でくじ引きもできる。そう珍しいものじゃない。
だけど、これまでにない程今年は盛り上がっていた。その理由が、私の手の中にあるもの。雑誌やテレビでも取り上げられ最近特に人気のガラス工芸作家が、フラワーフェスタの為に製作したオリジナルのアクセサリー。この特別賞目当てに、どれだけたくさんの人がいたのか。
「…ありがと」
きらきらしたガラスの花は宝石みたいに綺麗で、ガラスなのにどこか柔らかくて、温かい。
まだ少し先の、その春の花達をそっと首に飾る。コートで大半は隠れてしまったけど、一足先に春が来たみたいで嬉しくなった。
そっと、右手を隼人の左手に重ねる。繋いだ手から伝わる温もりは、手袋やカイロでは比べられないほど温かなものだった。