1 alwaysー吉川悟ー
目覚まし時計のアラームで、一日が始まる。
ジリジリと枕の横で鳴り響くそれへと手を伸ばして音を止め、体を起こす。
身支度を整え、7時前には家を出て歩いて駅の反対側へ。わりと涼しいこの街は、夏の朝でもひんやりとした空気に包まれてさわやかだ。
自分の店が入っている雑居ビルを素通りし、先に、商店街の端にあるベーカリーに向かう。ここで、モーニングのトーストや軽食のサンドイッチ、ホットドッグに使うパンを仕入れていた。
店の奥、厨房の裏口の扉をノックして開けると、それまでも漂っていたパンの香りが、よりいっそう強くなる。
おはようございますと声をかければ、業務用のオーブンの陰から篠原さんが出てきた。
「マスターか、おはよう。パンは幸恵が包んでいるから少し待っていてくれ」
「わかりました」
「…クロワッサン食べるか?ちょうど焼きあがったばかりだ」
「ありがとうございます。いただきます」
篠原さんから受け取ったクロワッサンは、その言葉通り熱かった。一口かじれば、バターの柔らかな香りが立ち上り、何層にも重ねられた生地はサクサクとしていて、とても軽い。
「おいしいです」
「そうか。お、幸恵も終わったみたいだ」
「マスターお待たせ。じゃ、今日も頑張ってね。暇があったらコーヒーを飲みに行くよ」
「ありがとうございます。是非」
幸恵さんからパンを受け取って、店に向かった。
開店五分前。少し早いけど窓のロールカーテンを上げ、ボードを店の外に出してオープンの札を扉にかける。
交差点の向こうの長距離バスのターミナルを見ると、丁度バスが到着したところだった。前方の扉から次々に人が降りて、荷物を受けとる為の列を作って並んでいる。
何人かはここにも来るだろうと思いながら、店に戻ってお客様を待つ。程なくして、カラン、と軽いベルの音が届いた。
「いらっしゃいませ」
本日一番目のお客様は、大学生らしき女の子だった。
お好きな席にどうぞと声をかければ、女の子はカウンターの一番端に座った。
「どうぞ」
水の入ったグラスとおしぼり、メニューをさしだす。メニューを開いた女の子は、迷わずブレンドコーヒーを注文した。
「かしこまりました」
カウンターに戻る。コーヒーを淹れ、モーニングをプレートに盛りつけている間、女の子は物珍しげに店内のあちこちに視線をさ迷わせていたけど、いつのまにか頬杖をついてうつらうつらとしていた。
大きなトランクを持っているし、多分さっきのバスの乗客で、車内であまり眠れなかったんだろう。だから眠気覚ましの為にコーヒーを頼んだのだと思う。旅行でここに来たのか、帰省なのかは、わからないけど。
「おまたせいたしました」
そっと声をかけると、女の子ははっとしたように顔を上げた。
女の子の前にブレンドコーヒーとモーニングのプレートを置いて、モーニングの説明をする。この辺りではほとんどやっていないサービスだから、最初はびっくりされることも多かった。女の子も初めてなのか、戸惑っているように見える。
カラン
またベルが鳴った。
女の子の席に伝票を置いて、戻る。
「小林さん、おはようございます」
「おはようございます。マスター、いつもので」
「ブレンドコーヒーですね。かしこまりました」
次のお客様は小林さんだった。税理士で、上の階で仕事をしている彼は、昼頃に来ることが多い。だから、小林さんが出勤前に来るときは理由がある。
「…千晶さんは、またどこかに?」
「ええ。展示と講演で来週まで東京です」
「忙しいですね」
「本当に。身体を壊さないか心配になりますよ」
やれやれと言いたげに小林さんは首を振った。
小林さんは、家で一人きりで食事をするのがあまり好きじゃないらしい。だから、奥さんの千晶さんが仕事でいない日が続くと、朝もここに来ることが多い。昨日も来ていたからまさかと思っていたけど、やっぱりそうだったらしい。
コーヒーを飲みながら持参してきた新聞を小林さんが読み始めると、本日三回目のベルが鳴った。入ってきたのは、三國さんと商店街の人達。毎日のように顔を出す、いつものお客様だ。
「マスターおはよう、いつものやつね」
「おはようございます。かしこまりました」
ブレンドコーヒーとアイスコーヒーとウインナーコーヒーが、三國さん達が頼むいつものメニュー。三人はテーブル席に座ると、小声で雑談をはじめていた。
それからは次々にお客様が来店された。顔馴染みの人だったり、さっきの女の子のように高速バスの乗客だったり。ルーチンワークなんだろうけど、同じ日も瞬間も一度としてない。
他の人にとっては些細な日常だと思う。だけど、自分にとっては小さい頃から憧れ、目指していたものだった。