11 no secret word―吉川悟―
一日が始まる。
店を開けた時、そんな気分になる。大体開店と同時にお客様が来て、賑わって、少し落ち着いてまた賑わってのインターバルを何度か繰り返して閉店時間になり、一日が終わる。ルーチンワークのようで、そうでない毎日。
今日もそう。始まるなと思いながら店の入口を開けてお客様を迎えようとして、そこで、いつもと違う一日が始まりかけていることを知った。
「おはようございます」
「おは、よう…」
驚きすぎて、言葉が詰まった。
朝、扉を開けた時にお客様が待っているのは、そう珍しいことでもない。だけど、そこにいたのが寺本さんなら話は別だ。一年に何回もないのだから。
それに、会いたいのに、会うのが少し怖いと思ってしまう人なんて、寺本さんしかいない。
「どうぞ…」
寺本さんを席に案内する。これまで何百、何千と同じことをしてきたはずなのに、妙に緊張して動きも言葉もぎこちない。
カウンター席に座った寺本さんは眠たそうで、小さくあくびをしていた。目もほんのりだけど、赤い。
「…眠そうだね」
「昨日のバス、やたらと寒くて寝れなかったんです」
大変だとは思ったけど、少し嬉しかった。真っ直ぐ家に帰って寝直すこともできるのに、それでもこの店に寄ってくれるなんて。
おかえりなさいと言葉を続ければ、寺本さんからただいまと返ってきた。
「…お待たせいたしました」
ブレンドコーヒーとモーニングのセットを持って、声をかける。だけど、寺本さんは俯いたままで顔を上げなかった。
「寺本さん?」
もう一度呼んでみたけど、反応はない。さっきもあくびをしていたし、待っている間に寝てしまったみたいだ。
起こそうと肩に手を伸ばしかけて、やめた。誰か他のお客様が入ってきて賑やかになれば、起きるだろう。
手持ちぶさたで、何とはなしに寺本さんを見る。クリーム色のセーターに包まれた肩は華奢で、夏より伸びた髪が柔らかい曲線を描いて垂れていた。その髪の隙間から見える細いうなじがまぶしいほど白くて、思わず目を逸らす。
…未練がましくて笑えてくる。何も始まらせないまま終わらせようとしているのに、胸に燻る感情はちょっとしたきっかけがあれば簡単に燃え上がる。決めたはずなのに、それを抑えきれない。
何度も考えて、出した答えだった。
やっぱり、自分は知りすぎていた。夢みたいな奇跡を見てしまった。世界を隔ててもなお、互いを想い続けた二人に対して気後れもあるし、少なからず嫉妬もしている。
あの日を知らないままだったら、まだ良かったのかもしれない。だけど、このことをまったく知らない誰かのように、昔付き合っていた人で片付けるのは無理だった。それで済ませられるほどの、強さも器も自分にはない。
それに、これから先寺本さんにはたくさんの出会いがある。夢だったし不満はないけど、休みは少なくほぼ一日中働き詰めだ。会える時間も、場所も限られている。縛りつけたくない。
寺本さんには幸せになってほしいし、できるならこの手で幸せにしたかった。諦めるのは苦しい。でも、いつかは今の激しさも薄れていくはず。お客様と喫茶店のマスター、ありふれたその関係のままで終わらせるつもりだった。
そっと、辺りを見回した。店を開けて二十分は経っているのに、寺本さん以外のお客様がまだいない。珍しいこともある。
たった一言、ずっと言えなかった秘密の言葉。言わないままでいたかった。だけど、敢えて声に出したのは自分に決着をつける為。
秘密の言葉が、音になる。
それが、寺本さんに届いていないことはよくわかっている。違う。聞かれてないからこそ、口に出せた。
たった一言発しただけで、喉はからからになっていた。水を飲もうとバックヤードに行こうとして、ふいに届いた声に足が止まる。
「…私も、です」
寺本さんの言葉が、秘密の言葉の返事だと理解するまで、どれだけ時間がかかったのか。
ようやくそれを理解して、慌てて振り向けば、眠っていたはずの寺本さんがこちらを見ていた。
「寺本さん何で起きて…。それに、今の話」
「…すみません。聞いてました」
立ち眩みがして、壁に打ちつけるようにもたれかかる。その振動で、伏せたグラスやカップがビリビリと揺れた。
「お店に入る前に、三國さんて方に言われたんです。吉川さんの前で寝たふりをすると面白いことがあるかもよって」
「っ…!あの人は」
何をしているんだ。
そう叫びたいのをどうにか堪えて、代わりに手で額を押さえる。明日あたりどうだったかと聞きにくる姿を想像してげんなりしかけて、一つ忘れていたことを思い出した。
そもそも、伝えないはずの想いを声に出したのは、自分の中で決着をつける為もあるけど、店内に二人きりしかいない時間が長かったから。さっきは、ほぼ毎日のように顔を見せるお客様さえも来ないなんて珍しいとしか思わなかったけど、よく考えてみたらおかしい。何より、店の前にいたっていう三國さんが今もいないのも変だ。
まさかとカウンターを出て入口に向かう。扉を開けて、飛び込んできた光景とその人に身体中の力が一気に抜けた。
「やあマスター、おはよう」
「…三國さん、何して」
「ん?今日はマスターが急用で開店が少し遅れるからお客様に説明をね」
「店主に断りもなしで、営業妨害ですよ」
「まあまあ。そうだお嬢さん、もうマスターの急用は終わったのかな?」
「はい。いいことがありました。三國さん、ありがとうございます」
いつのまにか隣にいた寺本さんが、そう三國さんに返事をする。
「それは良かった、お幸せに。それじゃマスター、そろそろ店は開くのかな」
ちょっと待て。
ずっと前から願って、欲しくて、伝えたかった言葉をようやく言えて、聞けた。その言葉がどんな意味を持つのか、よくわかっている。
だからこそ、このまま終わらせたくない。
「三國さん、あと十分したら店を開けますので、もう少しだけ立ち番お願いします」
そう言って、三國さんの返事を待たず扉を閉めた。
「吉川さん?」
「寺本さん、さっきのことだけど…」
「盗み聞きしてすみません!…怒ってますよね」
「あ、違うんだ。聞きたかったのは、本当にいいのかで」
「勿論です。吉川さんこそ、私でいいんですか?はやとの事もあるし、その…」
多分、二人共あの日を忘れることはないだろう。だけど、変わらない過去に嫉妬し続けるより、これからあんな風になれるよう、二人で生きていければいい。
もっとも、もう二度と寺本さんをあんな風に悲しまるつもりはないけれど。
誓いにも似たその想いを伝えれば、寺本さんは泣いているようにも笑っているようにもとれる表情を浮かべていた。
「寺本さん?」
「…よかった。ずっと迷ってて、三國さんに言われた時、悪いのはわかってたんですけど、半分は藁をも掴む気持ちでした」
なんだ。
蓋を開けてみれば、二人共同じ事で悩んでいたのか。手を伸ばせば掴めたはずの手を、自分で作りあげた杞憂に怯えて、もう少しで大切なその手を振り払うところだった。
「…だから、本当に嬉しかったんです。私も同じ気持ち…」
「ちょっと待って!その続きはも言わせて」
さっきのあれはただの一人言。あんな独りよがりな告白でお茶を濁して終わりなんて、この先きっと彼以上に引きずる。
もう一度寺本さんに向けて告げた秘密を無くした言葉は、内包していた胸を焦がすような苦しさも同時に消えていて、甘さだけが残る言葉になっていた。