10.5 good bye―寺本紫―
ざあざあと降る雨の中、私は一人そこにいた。
傘をさしていないのに、体のどこも濡れていない。ふわふわと宙を浮いて、その光景を見ていた。
夜の闇に沈む、灰色の建物に囲まれた駐車場。そこで立ち尽くす、今にも夜に溶けていきそうな黒ずくめの女。今の私と同じように傘もささず、かといって雨宿りをしようともしないその姿は当然びしょ濡れ。知らない人が見たら幽霊と勘違いされてもおかしくないと思う。幽霊じゃないと、私はよくわかっているのだけど。
何度も見てきた夢の一つだった。延々と、隼人が死んだ時の私を見続ける悪夢。ただそれだけなのに、苦しくて辛い。ここ最近は悪夢を見ることがなかっただけに、余計憂鬱になる。
起きたら寝汗が酷いんだろうなと思っていると、バシャバシャと水音が聞こえてきた。いつもとは違う展開に、何だろうと音がした方を見るのと、その声が聞こえてきたのはほぼ同時だった。
「寺本さん!」
水溜まりも避けず、傘をさした吉川さんが立ち尽くす私に駆けよる。
本気で心配しているだろう吉川さんに応える私の反応は、無機質で酷く鈍い。壊れた人形みたいだ。
あんな私が自分から動くまで、吉川さんはずっと付き添ってくれた。その後も、タオルや上着、美里に連絡など、あの日が過ぎたのは吉川さんのおかげとしか言いようがない。
悪夢のはずなのに、吉川さんが私の近くにいることで少しだけ心が安らぐ。苦しみや辛さも薄らいで、無意識に入っていた体の力が抜けていった。
その間もあの日の時間は流れていた。そこへ現れた三人目の人影。今となっては何もかも懐かしいその人が、紫と、私を呼ぶ。
「隼人…」
後ろから、隼人は立ち尽くす私を抱きしめる。
はらはらと、花びらが雪のように舞う。それに気づいた私と吉川さんが顔を上げた。
私の肩に顔を埋めた隼人が耳許で何かをささやく。堪らなくなって近寄ろうとしたが、見えない何かに釘付けされたように体は動かない。
泣き出した私の頭を優しく撫でると、隼人は抱擁を解いた。私の前に出ると、体を少し屈める。
ほんの一瞬、唇が重なった。
かすかな熱を唇に感じて、それで最後だった。やや半透明とはいえ、はっきり見えていた隼人の姿はぼやけて、薄れていく。
「隼人!!」
叫ぶように呼べば、隼人が顔を上げた。斜め上にもいる私に一瞬目を丸くしていたが、嬉しそうに笑って、見えなくなるまで手を振っていた。
さよなら
その言葉と同時に、目が覚めた。
こたつでうたた寝をしていたらしい。枕代わりにしていたクッションから頭を上げ、体を起こす。
窓から見える空はオレンジ色で、部屋は薄暗かった。昼ごはんを食べてからテレビを見始めたまでは覚えているから、4時間は眠っていたらしい。再放送のバラエティー番組は当然終わっていて、夕方のニュースが流れていた。
「隼人…」
私しかいない部屋。応えがあるはずはない。わかってはいるけど、呼んだ。
もう二度と、あの夢を見ることはない気がした。最後だから、隼人に会えた。
雨の中にいた私は、隼人の温もりも、感触もわからなかった。当然その姿は見えていなかったし、声だって呼ばれたような気がしただけで、聞こえていたのかわからない。何もかもがあやふやで、隼人があそこにいたという証明はできない。
もしかしたら今見た夢も、私の願望が見せた幻なのかもしれない。だけど、無意識に縛りつけていたものがほどけた気がした。
ずっと一緒にいたかった。初めて本気で好きになった人。思い出のベールにくるまれて、あの時の感情も激しさが薄れつつある今だから、言える。
「…ありがと、さよなら」
私一人しかいない。なのに、近くで誰かが笑って頷いたような気がした。