10(後編) good luck―吉川悟―
思ったよりも冷たい夜風に、長袖を羽織ってこればよかったと少しだけ後悔した。
アパートを出た直後は、風呂上がりで火照った肌に涼しい風が気持ちよかった。ただ、それも数分の間だけで、湯冷めした今は少し肌寒さを感じている。昼間はまだ暑いが、日が沈めば涼やかな秋の気配を感じられた。
いつものように、駅を通って反対側に出る。夜の十時を過ぎた駅は昼間の賑やかな気配など欠片もなく、閑散としていた。店までの道も人通りはほとんどなかった。
裏口の鍵を開け、左手にあるスイッチを押して明かりをつける。バックヤードの机の上に、目当てのもの、携帯は置いてあった。ポケットに入れて明かりを消し、鍵をかける。
早く帰ろうと、元来た道を戻る。
途中、ゴロゴロとキャスターを転がす音が前から聞こえてきた。目を凝らせば、駅からこちらに向かって歩く人影が見える。
近付くにつれ、街灯に照らし出されたその人がはっきり見えてきた。それは向こうも同じだろう。誰かが歩いてきていて、少しずつ、背格好や性別がわかってくる。最後がきっと、相手の顔。
思わず足が止まる。
本当に、すごい偶然だと思う。携帯を店に忘れるなんて今回がはじめてだし、アラームを使っていなければ、一日くらいまあいいかと放置していたと思う。そんな自分と、あの荷物からしてこれから帰るのだろう、彼女がここで出会すのは。
彼女に声をかければ、驚いたように寺本さんも立ち止まって目を丸くしていた。
「…吉川さんは仕事の帰りですか?」
「違うよ。携帯を忘れて取りに戻ったんだ。寺本さんはこれから帰るの?」
「はい。十時半にバスが出るので」
駅から店の前を通った先に、高速バスの乗場がある。バスで朝ここに着いた人が、お客様として来店する事も多い。
寺本さんだってそうだ。春と夏と冬、年三回の限られた時期、帰省の間だけ。毎日顔を出すような常連ではないけど、それでも常連のお客様だと思う。
「吉川さん、それじゃあ」
「あ、送っていくよ。遅いから」
「悪いですよ。乗場はすぐそこだし」
「気にしないで。まだ少し外にいたい気分なんだ」
一人で行こうとする寺本さんに無理を言って、ついていく。
「…次に帰ってくるのは、冬休み?」
「はい。夜行バスに乗るのも今日と冬の往復で多分終わりです。三月になれば卒業だし」
「もう四回生なんだ。早いなあ」
「本当です。来年の今頃は働いているのかと思うとびっくりですよ」
時間が流れるのは早い。寺本さんと会って、三年が経とうとしていた。
喫茶店のマスターとお客様。それだけのはずだった。西岡さんがいなかったら名前を知ることもなかったろうし、せいぜい、学生さんかなと勝手に想像するだけだったと思う。
西岡さんの友達だと知った後だってそうだ。寺本さんには大切な人がいた。彼が生きていたなら、二人が築いていくだろう幸せな未来を遠くから見守るだけで終わっていたはずだった。
幾つもの偶然が重なって、こうして寺本さんの隣を歩けている。それを嬉しいと思う半面、素直に喜べない時もある。
人を好きになるのは難しい。昔、寺本さんに淡い片想いをしていた和樹くんにを見て思ったそれ。自分にそのまま、その相手まで同じで跳ね返ってくるとは思わなかった。
そんなことを考えている内に、乗場に着いていた。
「……」
百メートルあるかないかの距離。駅から離れすぎているのは不便だろうけど、この時ばかりはもっと遠くてもいいのにと思ってしまった。
ショルダーバッグから、寺本さんがチケットを取り出す。バスはまだ着いていないが、前方でスタッフが乗客の確認をしていた。
「…吉川さん」
「何?」
「我儘なお願いなんですけど、受付に行っている間、荷物を見てもらってもいいですか?」
「うん。どうぞ」
もう少しだけ、寺本さんと一緒にいられる理由ができてホッとする。
早足で、寺本さんはスタッフの所へ歩いていく。その後ろ姿を見つめながら思う。
…いつから、寺本さんのことを好きになっていたのだろう。自覚できたのは三月。彼の死から一年過ぎて、前を向こうとしたその姿を見た時から。だけど、それより前から惹かれていたような気もしている。
先月、偶然夏祭りで会った時は嬉しかった。桃井さんもいたけど、決死の思いで誘って、店じゃないところで一緒の時間を過ごせて心が踊った。花火なんか上の空。それよりも隣の寺本さんが気になって、こっそりと何度も彼女を見ていた。だからそれを見てしまった。瞳から滲んで、零れていったものを。
寺本さんの涙を見るのは二回目。
もしかしたら、まったく別の理由だったのかもしれない。だけど、見た瞬間にあの雨の日を思い出してしまった。
あの日を知らず寺本さんを好きになっていたなら、ここまで悩まずにいられたように思う。でも見てしまったのだ。二人の絆と、夢みたいな奇跡を。あんな綺麗なもの、忘れられるわけがない。
気後れしていた。彼に対して。寺本さんに対して。これから出会うだろう何も知らない誰かと違って、自分は知っている。知りすぎている。思い出にしたくても、知りすぎた自分といればいつまでも彼を引きずってしまうような気がした。それで本当に、寺本さんが立ち直れるのか。幸せになれるのか。
答えの出ない問いが頭の中をぐるぐると駆け回る。煮詰まって、ごちゃごちゃになって、一人勝手に追いつめられていく思考を止めたのは、寺本さんの声。
多分、何度か呼んでも反応しなかったのだろう。大丈夫ですかと尋ねる寺本さんの声は心配そうで、慌てて、大丈夫だと返す。
「吉川さん、バスが来たので私行きますね」
寺本さんの言葉通り、バスが停まっていた。一列に並んだ人達が、次々に中に入っていく。
「冬休みにまたお店に寄ります。今日はありがとうございました」
「うん、また…」
「はい」
笑顔で頷いて、寺本さんもその列に加わる為歩き出した。
これでまた何ヵ月かは会えない。もしかしたら、その間に寺本さんは他の誰かと出会うのかもしれない。そうなったら、この感情は一生秘めたまま押し殺すしかないだろう。だけど、今ここで告げる勇気もない。
喫茶店のマスターとお客様。繋いでいるのはありふれたそれだけ。寺本さんが来なくなれば、簡単に切れてしまう繋がり。だから怖い。だから言えない。
一人悶々と苦しむのだとしても、会えないよりはこうして会えるだけで、いい。
「寺本さん!」
それでも、せめてこれぐらいなら今の関係でも許されるんじゃないかと寺本さんを呼び止め、いってらっしゃいと手を振る。幸せでいてほしい。なってほしい。そんな、祈りみたいなものを込めて。
「…いってきます!」
返ってきた言葉と一緒に見えたものは、寺本さんの嬉しそうな笑顔だった。