9(後編) close―吉川悟―
「マスターお疲れ様です」
「うん、また明日」
帰っていく加藤くん達を見送って、掃除を再開する。
閉店まで残り十五分。珍しく今日はお客様が全員帰り、少し早いけど閉店準備にかかっていた。
オーダーストップの時間もそろそろだし、今日はもうクローズの看板を出そうと、掃除を終えて外に出る。通りを歩く人は疎らで、八時前だというのにやけに静かだ。
「吉川さん」
名前を呼ばれて、闇に沈んでいた彼女の姿が視界に浮かび上がる。
「!…寺本さん」
「こんばんは。お久しぶりです」
黒いコートを寺本さんは着ていた。その色ならば、とっぷりと日が暮れたこの時間、簡単に夜の闇に紛れてしまう。だから、呼ばれるまでまったく気づかなかった。
「帰ってきてたんだね」
「はい。今朝帰ってきて、今日は予定があったので真っ直ぐ帰ったんです」
「そうだったんですか。よかったら、入りますか?」
「えっ!もう閉店ですよね?悪いです」
「大丈夫ですよ。他の方には秘密にしてもらえれば。紅茶くらいならご馳走します」
「……それじゃあ、お言葉に甘えてもいいですか?」
しばらく迷ってから、おずおずと寺本さんは頷いた。
看板を片付け、クローズの札をかける。カウンター席に寺本さんを案内した。
ポットとカップを温めてから、ダージリンの葉を蒸らして紅茶を淹れる。二つのカップに注がれる液体は、とろりとしたオレンジ色。
「お待たせ」
「ありがとうございます」
寺本さんに紅茶を渡し、自分もカップを傾ける。
黒いコートを脱いだ寺本さんは、中も黒い服だった。その姿は、どうしてもあの雨の夜を彷彿とさせる。
普段から黒を好む人もいるだろう。だけど、黒を身に纏った寺本さんは、あの日と強く結びついている。あの時も感じた、やるせなさと切なさ、何も出来ず何かにすがることしかできなかった己の無力、それらがない交ぜとなって胸を刺し、息苦しい。
あれから一年が経つなと思い返したところで気がついた。今日、寺本さんがあの日と同じような黒を纏う理由を。今日の朝に着いて、すぐにあったという予定を。
「寺本さん、今日は…」
「はい。はやとの命日でした」
紅茶を一口飲んで、寺本さんは言葉を続ける。
「今日おばさんに案内してもらって、墓参りに行ったんです。もう一年なのか、まだ一年なのかはわからないですけど」
「そっか」
「吉川さん、お通夜の時は本当にありがとうございました」
「気にしないで。ただ立っていただけだから」
何も出来なかった。せいぜい、青臭い感情を振り回しただけ。それも中途半端に。
「…いえ、言わせてください。多分、あの時私は死のうとしてたんです。もし吉川さんが通りがからなかったら、どうなっていたかわかりません。だから本当に、ありがとうございました」
そう言って、深々と寺本さんは頭を下げた。
ほんの一瞬、二人が羨ましいと思ってしまった。本気で人を好きになって、相手も同じで、誰よりも強い絆で結ばれていた。世界を隔ててなお、その想いは奇跡を呼んだ。
長い一生の内、そんな相手に出逢える人はどれだけいるのだろう。そんな運命の相手に、二人は出逢えた。それが、羨ましかった。
「…吉川さん、何もしてないって言いますけど、待っていてくれましたよね」
ゆっくりと、寺本さんが頭を上げる。
「寒いのに、私の気が済むまで長い時間隣にいてくれて。はやとが降らした花の雨は勿論ですけど、あの時吉川さんがいてくれて、私はそれにも救われたんです」
「あの場を目撃した人なら、誰だって同じことをしたと思いますよ」
「でも、あの時あの場にいたのは吉川さんだけです。他の人は誰もいなかった。花の雨だって、放心状態だったら見えなかったかもしれなかった。吉川さんが思っている以上に、あの時吉川さんがいた意味は、私にとって大きいんです」
「そうかな…」
「大きいです。あのままだったら、生きていても私はこうして立ち直れていたかわかりませんから」
にこりと、寺本さんが笑う。
久しぶりに、寺本さんのそんな表情を見たような気がした。彼が亡くなってから、朗らかに笑っていてもどこか哀しみが残っていたから。それが、今はどこにもない。
少しずつ、寺本さんは前へと進もうとしている。もう一度幸せを探して、掴もうとしている。
その姿があまりに綺麗で、眩しくて、それから寺本さんが帰るまで目を逸らしてしまう自分が情けなかった。