誤解
「さっそく幼い子がいる家などには、水を沸騰させて使う様に指示を出そう」
一心との話を終え、さっそく予防という概念を広げようと考え始めるルウェル。一心は何かしたいことがあるとかで、既に部屋を後にした。
しかし、やる気を見せるルウェルに待ったをかけた者がいた。
「姫様、少しお待ちを」
そう言ったのは、新たにこの場所に呼び出された一人のメイドだった。一心に付いたメイドでは無く、厨房を担当していたメイドで、一心の指示を受けてここ数日彼の食事を管理していた者だった。
「彼の出した指示は確かに効果があるのかもしれません。現に彼はこの数日間で回復してしまった。我々メイドも驚いております」
厨房を任されるメイドはルウェルの信頼厚いベテランが多い。それは食事は生命を握る活動だからだ。弱い毒を食事に混ぜ続けられたりしたらたまったものではない。そんな理由もあり、厨房を任される一人として、彼女はルウェルに対して真っ向から物が言える人材だった。
「しかしながら、現実的ではありません。現に厨房や関わりのあるメイドからは苦情も出ております」
「苦情……ですか?」
「はい。まず使う水を一々すべて沸騰させろというのが彼の指示でした。そうなるとどうなりますか? 毎回毎回我々は火を焚き、沸騰するまで待たなければなりません。そして使う布巾も、コップも、皿も、スプーンもフォークも全て! 沸騰したお湯で洗う様にとの指示でした」
そう言ってルウェルへと見せたそのメイドの手は、赤く爛れていた。彼女は熱湯の中へと手を突っ込んで作業をしたのだ。
「無論、若い者達にこのような作業をさせるのは酷でございます。私が全てさせていただきました。そして飲み物用の水はいったん沸騰させてから持ってくるようにとのご指示。冷やすのに大量の氷を使わなければなりませんでした」
その言葉に、というよりもそのメイドの手に言葉を失うルウェルとリューク。その隣でエルクは静かに一心を呪う言葉を吐いていた。
「彼の指示を受け入れるようにとの姫様の命でしたので、私は従いました。子を思う母ならば同じことをするかもしれません。しかし、そんな事をあなた様は民草にさせるおつもりですか?」
静かに、しかし強く、そのメイドの言葉は部屋に響き渡った。
「そんな……そんなまさか……」
信じられないといった表情で固まるルウェル。確かに彼女はメイドたちに一心の意志を出来る限り尊重し、受け入れるように命じていた。それは一心を取り込もうと考えた彼女が打った一手だったのだが、それがこのような形で返ってくるとは思いもよらなかったのだ。
(私に見る目が無かったから……)
「エルク、彼を呼んできてくれ。問い質す」
言葉を失ってしまったルウェルに変わり、リュークが指示を出す。その言葉には押さえきれない怒りが滲んでいた。
「姫様、もし彼が自分の為なら他人がいくら傷ついても構わないという男ならば……あなたの傍に置くわけにはいかない。そしてその時には、儂がこの場で斬って捨てます。よろしいですね?」
「え、ええ……」
ルウェルがおずおずと頷き、それを見たエルクが自分の仕事をする為にその部屋を後にする。リュークも己の剣を取りに自室へと向かった。後に残ったのは、うなだれてしまったルウェルと、手にやけどを負ったメイドの2人だけだであった。
(やれやれ、エルクはともかくあの人まで姫を放って出ていくとは……)
さてどうフォローするか。そう考えながらメイドはルウェルへと視線を向ける。実はこのメイド、リュークの妻であった。
夫であるリュークはルウェルの側近として仕事も多く、メイドは厨房を束ねる者、それ即ち全メイドを束ねる者として多忙であった。なので数日間顔を合わせないというのも多々ある事で、リュークは妻の手の状況をこの時初めて知ったのだった。
(まぁ、今はあの人の事は放っておいて……)
メイドは言葉を選ぶようにしながら、ゆっくりとルウェルに話し掛けた。
「姫様、顔を上げてください。これは何も姫様だけの責任ではありません」
あなたの責任ではないとは言わない。彼女の命を受けて、メイドたちは一心の言葉に全面的に従っていたのだから。
「近くに控えていながら止めなかった男ども2人の責任もありますし、言われるままに行動した私自身の責任でもあります」
彼女には、ルウェルの悲しみがどのようなものかが手に取るようにわかった。長年面倒を見てきた娘なのだから。彼女は、自分の言葉が結果的にメイドを傷付けたのだと思っていた。それはある面では正しい。ルウェルの言葉が無ければ、もしくはルウェル以外の誰かに言われたのならば、彼女は従う事は無かった。理不尽な命令だと誰かに言いつけただろう。しかし……
「これは私の意地でもあります。どんな理不尽なことでもあなたの言った言葉に否は唱えない。今回はあの男を間に挟みましたが……それでも私は姫の言葉に従う以外の道は選びたくなかった。これは私の意地です」
そう言って微笑んで見せる。少しだけルウェルも微笑を返した。引き攣った笑みではあったが。
「あなたは一国の姫であらせられます。その言葉にはそれ相応の意味と重みが付きまとうもの。これからは人を見る目を養うのも仕事ですね」
既にメイドの中で一心は、権力を笠に好き放題する悪者という立場になっていた。
実の所メイドを所有物として怪我をさせたり、やけどを負わしたりというのは余り珍しいことではない。彼女の主である少女はむしろ例外な方で、実際女王国の王族の中にもそのような残虐な性格のものはそれなりに居るのだ。
寧ろ、今回の事はルウェルにそれらの事を教える良い機会だとメイドは思っていた。ひとり勝手に。
◇ ◇ ◇
「へ――!?」
一心が与えられた部屋でこれからの事を考えていた時だった。いきなり扉が蹴破られたと思ったら、そこに鬼のような形相で立つエルクの姿があった。
「エルクさ――っつ!! 」
そして問答無用で殴られ、そのまま壁に叩きつけられる。
「ぐっ……つぅ……いきなり何するん――」
会ってから4日。とはいえその大半を部屋に籠っていた一心にしてみれば、ほとんど知らない相手にいきなり殴られたことになる。問う声にも自然と怒りが滲む。
「黙れ」
しかしそれ以上に怒りのこもった声が、一心にそれ以上の言葉を許さなかった。そして向けられる射抜くような眼差し。その視線は、一心を一瞬にして冷静にさせ、体の芯から怯えさせた。
(な、なんで? ……なんなんだこれは?)
向けられたのは剥き出しの怒りと殺意。初日に向けられた殺気が、まだ手加減されていたものだと分かる、本気の殺す意思。
「黙ってついてこい」
怯える一心に対して、エルクはそれだけ言うと背を向ける。一見隙だらけなように見えて、しかしその背は言い知れない威圧感と緊張を一心へと伝える。一心は戸惑いながら、エルクに付き従うのだった。
そして――
「一心……正直に答えて」
表情を強張らせて一心の前に立つルウェルと、その横で一心へと剣を突きつけるリューク。そして背後から変わらずに殺気を向けてくるエルク。その3人を前に、一心は訳の分からないまま、ただ呆然としていた。
「な、なんで急に……」
「あなたが先程話してくれた煮沸消毒。私に言い忘れたことは無いですか?」
一心の言葉は無視され、冷たい問いだけが返される。問い掛けているのはルウェルだった。初めはリュークが問い質すと言っていたのだが、それは自分の役割だと彼女が譲らなかった。
「言い忘れたこと……?」
一方で一心は質問の意味も、意図も分からずに答えに窮していた。もともと専門的な知識も無く、自分の知る範囲で間違ったことを言わないように気を使いながら説明をした一心。そんな彼にとって、言い忘れたことといわれてもピンと来るものは無かった。
しかし一心のその態度は、ルウェル達には答えにくいことがある、あるいは何かを隠そうとしていると映った。
「あるんですね?」
「いや、そんなこと……言われても……」
更に表情を険しくしたルウェルとリュークを前に、そして背後からはエルクの殺気に当てられて、思考停止へと陥る一心。そんな一心を余所に、事態はどんどん進んでいく。
「残念です……」
ルウェルはそれだけ呟くと、まるで見切りをつけたかのように一心から目を逸らし、1人のメイドへと向き直った。
「ごめんなさい、リュクス。私が見誤ったばかりに」
「いいえ、姫。分かっていただけたらそれで良いのです」
そしてそんなルウェルを受け入れるリュクスと呼ばれた一人のメイド。
「何か言う事は無いのか? あの手はお前の為に怪我したんだぞ?」
背後からエルクに言われ、初めてそのメイドが手にやけどを負っていることに気付く一心。そして視界の端では、リュークが手に持つ剣に力を込めるのが見えた。
「ええと、俺の為に怪我したって……?」
「貴様とぼける気か!!」
恐怖におびえながらも、心当たりのない一心としてはそう言うしかなかった。ただ、どうやら今回の事がそのメイドの手の怪我《火傷》に原因がありそうだと感じた一心は、その恐怖を必死に抑え込み、事態の改善を図る。
「だから、本当に分からないんですよ。彼女には初めて会いますし、いきなり俺の為に怪我したって言われても……」
「お主の食事を管理した者だ。そして儂の妻でもある。そなたの指示を受けて煮えたぎる湯の中で皿を洗い、布巾を絞り、その結果が彼女の手だ。それでもまだ知らぬ存ぜぬを通すつもりか」
そしてそれまで口を開かず、ただ一心へと剣を突きつけていたリュークが、ついに言葉を発する。その言葉は余りに静かな口調で、それでいて、エルクの言葉以上に一心に恐怖を抱かせる語調だった。
「いや、ちょっと待て……」
しかし一瞬の恐怖の後、一心の心に沸き起こった感情は言い知れない怒りだった。
「俺がいつ沸騰する湯の中に手を突っ込んで作業するように言った!? 俺は、使う前に湯をかけて消毒しろといったんだ!!」
一心はこの時点で何が起きたかをほぼ正確に把握した。
先ほど彼自身が述べた事だが、一心はリュクスに会うのはこれが初めてである。病床――といってもただの下痢だが――の身だった一心は、常にハルを通して自分の要望を伝えていた。どこかでその要望がねじ曲がり、違う形で彼女の耳に伝わったのだろう……
「だいたい、おかしいと思わないんですか! 熱湯に手を入れて作業しろって……どう考えても普通じゃないでしょう!!」
彼女の手の怪我は痛ましいと思う。曲がって伝わったとしても、自分の要望が彼女の手をそうしてしまったという負い目のような、申し訳なさは一心の中にもあった。けれどそれを遥かに上回る怒りが彼に声を荒げさせ、叫ばせる。
「何で聞き返さない? 一言、本当に俺がそう言ったのかとハルに聞けば、そして彼女が俺にもう一度尋ねれば済む話でしょ! そうすればあなたも怪我しなかったし、俺もこんなくだらない勘違いで剣を突きつけられることも無かった!!」
一心の怒りの声に、悲痛な叫びに、場は静まり返り、ルウェルもリュークも、そしてエルクでさえも呆気にとられ何も言うことが出来なかった。
「本当に……本当に言っていないのですか? 湯の中で作業しろと……」
「言ってない。というか湯の中で作業する意味がない」
痛いほどの沈黙が流れた後、おずおずとそう一心へと問い掛けたのは、事の発端にもなったリュクスという名のメイドであった。
「意味がない……とは?」
自分のやったことが意味のないことと言われたリュクスは、一瞬反発を覚えた様子を見せたが、しかしすぐにそれを押し隠し問いを続ける。
一方で一心は、少しばかり落ち着いてきたのか叫ぶことは止め、感情のこもらない眼差しをリュクスへと向けていた。
「言葉通りの意味です。消毒という事だけを考えたら、お湯は最後に掛けるだけでいい。わざわざその中で洗う必要もないし、俺はそもそもそうしろとは一言も言ってない」
改めて自分の発言を強調する一心。この頃になると、一心だけでなく皆が何が起こったのかを悟った。
「ハルを……呼んできて……」
震える声でそう言ったのは果たして誰だったのか。かくして、ハルの証言を経て一心の無実が証明されたのは、そのすぐ後のことだった。
ちょっと話の展開が強引過ぎたかなと・・・やや反省しております。。。
次回は12月2日(月)10:00です。よろしくお願いしまーす。