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予防という名の概念

 一心にとって異世界での初めての夜が明けた。今日からいよいよ本格的に異世界ライフが始まる! とワクワクドキドキ…………しているかと思いきや、残念ながらそういうわけでは無かった。


「だ、大丈夫ですか? 横になっていた方が……」


「いえ、大丈夫です……お気遣いありがとうございます」


 朝食の席で顔を合わせたルウェルと一心との会話である。顔を真っ青にして、足取りも悪くふらふらと朝食の席へと顔を出した一心に、心配そうな表情で声を掛けたルウェル。その少し前には、大事な姫様に病気を移されてはかなわんと、エルクが文字通り一心を食堂から蹴りだすという一幕があった。そのエルクはというと、そのせいでルウェルに叱られ盛大にふて腐れながら一心を睨みつけている。


「ただ、朝食は辞退させていただきたく……」


「ええ、それはもちろん構いませんが……本当に大丈夫ですか?」


 実際の所全然大丈夫ではなく、食べ物の匂いをかいだだけで既に吐きそうな一心。今は姫の前で粗相をしないように必死で耐えているに過ぎない。


「取り敢えず今日はゆっくりさせていただきたいと思います」


「お、お大事に……」


 何とか粗相をせずに済みそうだと一心は安堵と共にその場を後にした。


「軟弱者めめ……」


 一心が食堂を後にした後そう呟いた男が居たが、それが誰だったかは割愛する……






「くそ、せっかくの記念すべき異世界ライフ一日目が。あぁ……ま、またきた……」


 一方食堂を後にした一心はそう口にしながら急ぎ足で進む。目指す所は…………トイレだった。


「お、俺のイメージが……明日から下痢男とか呼ばれたらどうしよう」


 そう呟く一心の症状、それは腹下しと嘔吐だった。ではなぜそうなったのか。原因はおそらくだが水だろうと考えている。


 日本は水のきれいな国だ。何処に居ようとも、水道の蛇口をひねれば飲むことのできる綺麗な水が出てくる。そんな国は実は地球世界でもそう多くは無いし、外国へと旅行した日本人が水が合わずにお腹をこわすと言った症状は良く耳にすることだ。


 まして一心は水のきれいな田舎の出身である。そんな環境で育ってきた一心にとって、この世界の水は合わなかったいうのは十分に考えられることだった。


 加えて生活習慣の違いもあった。この世界では電気やガスは無い。おまけにろうそくはそれなりの値段がするので一般人がホイホイ使っていいものでもない。そうなると、人は当然日の入りと同時に就寝することになり、明るい時間帯を有効利用しようと朝は夜が明けると同時に起き出して活動を始める。極端な早寝早起きの生活習慣がこの世界での基本なのだ。


 一方の一心は現代人であり、元々が夜型の人間である。ほぼ毎日就寝時間は午前様だった。おまけにここには扇風機もクーラーも無ければ、柔らかなベッドも艶やかなシーツも無い。日本の基準で考えると決して生活しやすい環境では無かったのだ。


 夜寝つけず体力が低下した状態と、水が体に合わなかった結果。一心は己の状況をそう判断した。


 こうして、一心の記念すべき1日目は部屋とトイレを行き来するだけで終わった。







 続く2日目、3日目も似たり寄ったりの状況で、早く一心に異世界の話などを聞きたいルウェルは非常に気をもみ、それを宥めるエルクは何故か上機嫌だった。


 ただし、一心も何もせずにじっとしていた訳では無い。不調の原因を探ろうと密かに動き出していた。密かにというのは、部屋を出ようとしたらやんわりとメイドに止められたからだ。


「回復されるまで、今しばらく部屋でお休みください」


 と、口調は丁寧だったが、副音声は『病気の人間がうろついて、姫様にうつったりしたらどうしてくれやがるんだ、あ?』だった……たぶん。


 一心としては原因が水と判断していることもあり、人にうつる心配はあまりしていなかった。もし水でなくても次の可能性は食べ物ではないかと考えていた。しかし言われてみると、嘔吐下痢など似た症状で感染力の強い病気もある。何より一心は医者でも何でもないのだ。あくまで素人考えで正確なことは分からない。そう思えば、メイドの対応はごくごく当たり前のものに感じられた。


 そこで一心は、メイドにいくつかの質問をした。


 一つは部屋にあった水差しの中の水がどのような経路を経てここへと運ばれたのか。もう一つは一心が口にした食べ物の中で、お腹をこわしやすい野菜や肉は使われていなかったか。そして使われた野菜や肉は火がちゃんと通っていたか。


 一心が下痢を起こす前、つまりこの世界に来たその日に口にしたのは、部屋にあった水差しの水と、果物、そしてその日の夕食だけだった。


 それに対してメイドは、水は毎朝井戸から汲んできた物を水桶に貯めていて、飲み水もそれを利用する。つまりは水差しの中身は井戸水であったと淡々と答え、そして肉も野菜も共に姫様が口にされるもの。健康に害をなす恐れのあるものは決して使わないと少し不愉快そうに答えた。火が通っていたかどうかは調理したのが自分では無かったから分からないとのこと。


「ありがとう。それだけ聞ければ十分です。あとは、幾つかお願いがあるのですが……」


 聞きたいことは聞けたと一心。後はルウェルへの伝言を頼む。その後何度かメイドがルウェルと一心との間を往復し、やがて一心は少しずつ、体調を持ち直してゆくのだった。



 異世界生活4日目。


 不調を3日間で押さえ無事回復して見せた一心。この日が一心にとって本当のスタートとなった。そして復活して早々、さっそくルウェルの呼び出しを受けた一心は、メイドに連れられルウェルの部屋で彼女と向い合せで座っていた。


「それで、沸騰したお湯は薬になるのですか? そんな事は今まで聞いたことも無かったのですが……。あ、もしかして何か特別なお薬をお持ちなのですか?」


 待ちきれなかったとでも言うかのように、挨拶もそこそこに本題へと入るルウェル。この数日間、一心と直接接することを後ろに無表情で立つエルクに禁止されていた為、詳しい説明を受けられないまま、ただ一心の望むとおりにと指示を出していたのだ。その内容も、使う水全てを一度沸騰させるという事だけで、彼女にしてみれば、一心はお湯を飲んでいたら勝手に回復したといった印象を受けた。


「いえ、そういう訳では無いのですが……」


 問われた一心といえば、初日に会った時とは雰囲気も態度も全く違うルウェルの様子に驚き、圧倒されていた。ただその一方で感心もしていた。初日に見せた落ち着いた大人の雰囲気と、無邪気ともいえる年相応の愛らしい表情。かと思えば今日の猪のような猛進さ。実に様々な顔を見せる少女だと。


「ええとですね……まずお湯自体には薬等といった効果は無いです。正真正銘のただのお湯です。そもそも、目的はお湯を飲むことでは無く、沸騰させることにあるんです」


「沸騰っていうと、あのぐつぐつ煮え立った時の状態ですよね?」


 姫という立場もあって、彼女は自身で料理をしたりはしない。よって実際にその状態を目にした事は無かったが、しかし知識では知っている。


「そうです。そして沸騰させると、水の中にいる菌や細菌等を殺すことが出来ます。これを殺菌と言って――」


 けれども、彼女に分かる説明はそこまでだった。


「きん? きんって何? リューク知ってる?」


「生きものか何かでしょうか? 水の中に居る生き物という事は魚とかの仲間ではないかと」


「それって何か問題あるのか?」


 そもそもルウェル達は菌というものを知らなかった。彼女が自分よりかは物を知っているリュークに問い掛けるも、彼もそろって首をかしげてしまう。もう一人のお付きのエルクはというと、自分に聞かれなかったことにむっとしつつ、その矛を一心へと向けた。


「ええと……そこからなんだ」


 自分も専門では無く、さてどうやって説明するべきか悩む一心。ついついそんな言葉が漏れてしまった。一応一心にルウェル達を馬鹿にする意図は無かったのだが……


「きさま、姫様を侮辱するつもりか!」


「ちょっと、エルク落ち着きなさい!」


 そう取らなかった者も1名いた。彼はルウェルに止められ、それ以上一心に何も言えなくなったのだが、代わりに恨みのこもった眼差しを向けてくる。


(や、やり辛い……ってかこいつこの前から何なんだよ……)


 初日から続くエルクの態度に、一心も少しだけムカつきながら、しかし話は続ける。


「ええと、菌っていうのは目には見えないぐらい小さなもので、それを取り込んでしまうとお腹をこわしたり、頭が痛かったり、熱が出たりと、体のどこかに不調をきたす。そんな感じです」


 心の中でたぶんと付け加えながら説明する。何度も言うが彼は専門では無い。詳しく知っているわけでも、まして正しい知識かどうかも分からない。けれどそれでも、ルウェルの質問は更に続く。


「目に見えないぐらい小さいのに、私たちの体に影響があるのですか?」


「姫様、騙されてはいけません。姫様の仰るように目に見えないほども小さいのであれば、我々の体に害をなすはずがありません。アリが我々をどうこうできますか? そもそも、目に見えないというのであれば、なぜこの男はその存在を知っているのですか!」


「ちょっとエルク?」


 さすがに言い過ぎではないかとルウェルはエルクを窘める。そして顔を近づけるとそっと囁いた。


(一心を仲間にするって言いましたよね? なぜ彼の機嫌を悪くするようなことを言うのですか?)


(仲間にするのと、変な話を鵜呑みにするのは別の問題です。何より、姫様にへんな話を吹き込むなど言語道断です)


「あ~~どうぞ続けてください」


 突然内緒話を始めてしまったルウェルとエルクを首を傾げながら眺めていると、リュークが何処か気まずそうに話しの先を促してきた。


「姫とエルクも。話を聞いてみれば嘘かどうかは分かるのではないですか?」


「確かに。一心、先をどうぞ!」


 そんな感じで、良くは分からないが促されたので話を続ける一心。


「確かに小さすぎるので人間に害を与えることはできません」


「ほらやはり嘘だっ――」


「ただし、一匹ではです。この菌の怖いところは繁殖力にあります。人体の中に入った後、菌は繁殖し増加します。そして血液の流れに沿って体の大切な所、脳や、内臓、神経へと到達します。そこで、それらを攻撃するのです」


 エルクは怖いが、しかしその態度にいい加減ムカついていた一心はエルクの言葉を遮って事実たぶんを突き付ける。


「たとえそうだとしても、そもそも目に見えない物をどうやって――」


「それには顕微鏡という道具を使います」


 そう言って一心が取り出したのは双眼鏡だった。山中で鳥や植物、昆虫を観察するのに使っていたやつだ。


「これは双眼鏡と言って、顕微鏡とは違いますが仕組みはほとんど同じです」


 そう言って一心はそれをルウェルへと手渡そうとするが、横からリュークに遮られた。


「申し訳ありません、疑う訳では無いのですが、私が先にお使いしてもよろしいでしょうか」


 エルクとは違い言葉も丁寧で、本当に申し訳なさそうだったので、一心も機嫌よく頷く。少し考えてみたら、得体のしれない物を姫に直接渡すのは考えなしだったかもしれない。


「こちらこそ考えなしですみません」


 そんな言葉がリュークに対してはすんなり出てくる。エルクの態度が態度だけに、リュークには親しみが持てた。


「ほう……これはすごい」


 リュークは一心から教えられたとおりに、それを目に当て周りを眺める。ただし、表面上は感心していたが、内心では冷や汗をかいていた。


(これは戦場ではとんでもない価値を持つぞ……分かっていて見せているのか? だとしたら狙いは何だ?)


 もちろん一心は分かっていない。平和な国で育った一心には、何事も軍事的に結び付ける思考回路は持ち合わせていない。単純に、リュークの考えすぎだった。そして新たな問題が浮上する。


(これを姫様に見せるか? この青年の目的が分からないのに?)


 そんな彼の横では、ルウェルが今か今かと手渡されるのを待っていた。仕方なく双眼鏡を渡すリューク。彼女の反応は、リュークのものをいささか大げさにした感じだった。リュークと同じ疑問を持ったかは分からなかったが、年相応にはしゃぐ彼女の姿を見れたのだけは良かったと思う事にするリューク。エルクは双眼鏡を眺め、無言で一心へと返した。口をへの字に曲げて。


「この双眼鏡はそこまで倍率の高い物ではありませんが、顕微鏡はこれよりはるかに高い倍率を持ったものだと考えてください」


「倍率とは?」


「ええと、より遠くを見えること、言い換えると小さい物をより大きく見る能力とでも考えていただけたら……」


 その言葉で3者3様に納得する。双眼鏡から見える景色に心奪われていたが、元々これは小さい物をどうやって知ったのかという疑問から起こったことだった。つまり一心の世界ではこのような道具を使って、人の目では見れない世界を見ているのだろうと見当をつける。もちろんそれは間違っていない。


「話は戻るけど、のうって何? しんけいとないぞうは?」


 黙り込んでしまったエルクをそのままに、ルウェルは思いついた疑問をどんどん一心へとぶつける。


「ええと、脳っていうのも、内臓っていうのも、神経っていうのも、体の大事な所と思ってもらえたら大丈夫です」


 正直この勢いで質問を続けられたら、自分の答えられない領域まで行きそうだと答えを濁す一心。脳に関しては宗教的な配慮もあった。


「つまり、例え相手が大きくても、体のうちから数を増やして攻撃するのが菌という事です」


 そして強引に話をまとめにかかる。


「生のままの水や、野菜にはこの菌が含まれています。それを摂取してしまった事によって、俺は体調を崩してしまったという訳です」


「なるほど。沸騰させることでその菌を殺し、それ以上の菌の攻撃を防いだと、そう言う事ですね?」


 そんな一心の気持ちを汲んでくれたのか、リュークも話しをまとめに入った。ますますリュークに対する好感が募る一心。ある意味ルウェルの狙い通りに事が進んでいた。面白くないのはエルクだけである。


「でも、同じものを食べたり飲んだりしている俺や姫様は何ともないじゃないか?」


 未だ抵抗を続ける。しかしその抵抗はまだ一心の知識で答えられる範囲の物だった。


「長くそれを摂取してきた皆さんには耐性、つまりは抵抗する力、もっとわかりやすく言うと慣れのような物が出来ています。でも来たばかりの俺にはその慣れが無かった。そう言う事です」


「慣れが無いから体調を崩した。そして沸騰させることで菌の攻撃を防ぐ……」


 今度こそ黙り込んでしまったエルクに変わり、ルウェルがそんな言葉を紡ぐ。一心はまた何か質問が来るかと身構えるが、しかし彼女は自身の中で、その言葉を吟味している様子だった。


「慣れが無い子供も体調を崩す。でも沸騰させさえすれば治る?」


 その言葉にはっとしたのはリュークとエルクだった。そもそも、3人が一心を呼び出したのは彼の体調復帰が信じられないくらい早かったからだ。彼らの価値観で言えば、下痢というのは非常に怖い病気だった。水分を垂れ流し、幼かったり運が悪ければ死に至る。そうでなくても長く苦しむのが普通だった。それを一心は3日である。何か秘密があればと聞いてみれば、返ってきたのは知らぬ知識ばかり。リュークも、そしておそらくはエルクもそれに圧倒されるばかり、しかしそんな中で、ルウェルだけはそれを己の周りに還元できないかと考えた。


(敵わんな……やはり)


 こういう時、リュークはルウェルに為政者としての顔を見る。


「必ずとは言えませんがそれで防げる病気もあると思います。飲み水だけでなく、机を拭く布巾、コップや皿、野菜を洗う水。そこまで気を回せば水による不調はかなり減るかと」


 そしてそのルウェルは、一心と既にその先まで話しをしていた。


「これは予防という概念で、あらかじめ病を防ぐという意味です。ただこれは防ぐだけであり、慣れを作る事は出来ません。そして体には予め順応する能力が備わっています。体を環境に合わせていく事も必要でしょう。ただし、これは体が十分に大きくなってからするべきだと思います」


 この世界に、予防とう概念が伝わった瞬間だった。








読んで下さりありがとうございます。次回は28日木曜日10:00に更新予定です。よろしくお願いします

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