殿下、婚約破棄をご所望ですか? 承知しました。バカップルの尻ぬぐいは私がいたします!
王立学園の大舞踏室には、春の夜を照らす無数のシャンデリアが輝き、磨き上げられた大理石の床には光が幾重にも反射していた。
軽快なワルツの旋律が流れ、色とりどりのドレスが波のように揺れる。花々と香水の香りが混じり合い、春の気配が満ちていた。
その中心で、公爵令嬢セラフィーナ・ヴァルモンドは深紅のドレスの裾を静かに揺らしながら立っていた。銀糸の刺繍が光を受けて淡く輝き、黒のレースが彼女の落ち着いた気品を際立たせる。
セラフィーナは、ただ一度、大きく瞬きをした。
(――今、何と仰ったのですか、殿下)
目の前に立つ第一王子ノエル・ベルメストリアは、白と金の礼服に身を包み、舞台俳優のように胸を張っていた。その隣には、淡い桃色のドレスをまとった伯爵令嬢ベアトリス・ノワールが寄り添う。薄布のシフォンが揺れ、夢見がちな少女らしさをそのまま形にしたような姿だった。
セラフィーナの思考は、頭を殴られたように一瞬止まった。
口だけが夢遊病者のように動く。
「申し訳ございません、殿下。今仰られたことを……もう一度伺ってもよろしいでしょうか」
ノエルは深呼吸し、舞踏室の端まで響き渡る声で宣言した。
「セラフィーナ・ヴァルモンド。悪いが、君との婚約は白紙にさせてほしい。そしてここに誓う。ボクはベアトリス・ノワールを新たな婚約者として、生涯愛すると」
続いて、ベアトリスが胸に手を当て、涙ぐむような声で告げる。
「なんて嬉しいお言葉でしょう。私、ベアトリス・ノワールも、ノエル・ベルメストリア様を生涯愛することを誓います」
舞踏室がざわめき、やがて歓声が上がった。
「おめでとうございます、殿下!」
「ああ、なんてロマンティックなの」
「ノエル殿下、ベアトリス嬢、万歳!」
その喧騒は、セラフィーナには遠い雑音にしか聞こえなかった。
上位貴族の令嬢たちは扇子の奥でセラフィーナを冷笑し、中位以下の貴族や平民たちは無邪気に歓声を上げる。彼らがノエルを支持する理由は明白だった。
ノエルは身分差を盾に威張る高位貴族をたしなめ、平民や下位貴族にも分け隔てなく接する学園の空気を良くする王子だった。
その気さくさと公平さは、救いであり、憧れだった。
だが――その善性が、今は恨めしい。
セラフィーナは悟った。
――この場に、味方はいない。
背筋に冷たいものが伝い落ちた。
◇
舞踏室を離れ、三人は学院の奥にある練習室へと向かった。
廊下には夜気が流れ込み、先ほどまでの華やぎが嘘のように静まり返っている。
学院生たちは三人を避けるように道を開け、誰も声をかけようとはしなかった。
セラフィーナは深紅のドレスの裾を整えながら、静かに扉を押し開けた。
練習室の中は、外とは別世界のように静寂に包まれていた。
壁には厚い防音材が張られ、空気はひんやりと澄んでいる。
中央には黒檀のピアノが置かれ、艶やかな表面に灯りが淡く映り込んでいた。
セラフィーナが鍵盤にそっと触れると、乾いたCの音が室内に落ちた。
音は壁に吸い込まれ、外へ漏れる気配はない。
「ここなら、防音が整っております。外に声が漏れる心配はございません」
ノエルは落ち着かない様子で礼服の袖を握りしめた。
「誰かに聞かれて困るような話ではないと思うのだが……」
その無邪気な言葉に、セラフィーナは胸の奥で小さく息を吐いた。
(――あの場に、もう一瞬でも立っていることが耐えられなかっただけです)
だが、それを口にする必要はない。
「では、殿下。先ほどの続きをお願いいたします」
「あぁ……わかった」
ノエルは深く息を吸い、視線を落とした。
「セラフィーナ、さっきも言ったかもしれないが……君は何も悪くない。むしろ、日頃からボクに気を配ってくれていることには感謝している。だけど……ボクはベアトリスに恋をしてしまったんだ。何度も考えた。でも、この気持ちはもう止められない。本当に……すまない」
王子が深々と頭を下げる。
本来なら、決してあってはならない光景だった。
続いて、ベアトリスが胸に手を当て、丁寧に一礼する。
「セラフィーナ様。初めてお話させていただきます。ベアトリス・ノワールと申します。悪いのは殿下ではなく、私です。婚約者がいらっしゃると知りながら……殿下を好きになってしまいました。図々しいことは承知しております。ですが……どうか、お許しいただけませんでしょうか」
その姿勢は礼儀を守っているようでいて、根本から間違っている。
セラフィーナは静かに言った。
「そのように頭を下げられても困ります。どうか、お二人ともお顔をお上げください」
「だが……」
「殿下、お願いします」
二人はバツが悪そうに顔を上げた。
セラフィーナは、深紅のドレスの胸元に手を添え、静かに問いかける。
「お二人は、ご自分たちが何をなさろうとしているのか……理解しておられますか?」
「もちろんだ。ボクと君の婚約は、王家とヴァルモンド公爵家で一年前に決まった。近々、君の妃教育も始まるはずだった。だが、今なら婚約解消に伴う被害はほとんどない」
ノエルは真剣な顔で言った。
その表情は嘘ではない。
セラフィーナもノエルが誠実であることを理解していた。
ただ――王族として必要な思慮深さだけが、決定的に足りない。
セラフィーナは静かに問いを重ねた。
「ベアトリス様にも伺います。まだ婚約者は決まっておりませんね?」
「はい。候補の方はおりますが、お返事もしていませんし……お会いしたこともありません」
「ありがとうございます。では殿下。先ほど被害は最小限と仰いましたが……残念ながら、そうは参りません。むしろ、かなりの損害が出ます」
ノエルの顔が強張った。
「そ、それはどういうことだ?」
「王家とヴァルモンド公爵家は、婚約に伴い調印書を交わしております。内容は事細かく規定されており、目を通すだけで一日かかるほどです」
「それは知っている。ボクもサインするだけで丸一日かかったからね」
「では、内容を一文一文確認されましたか?」
「すまない……古語で書かれていて読みづらくて、途中までしか……」
セラフィーナは、わずかにまぶたを伏せた。
(――やはり、読んでいなかったのですね)
「では、調印書に記された婚約破棄時の規定をお伝えいたします。どちらかが一方的に婚約を破棄した場合、多額の賠償金が発生します」
「そ、そんな……まだ何も始まっていないじゃないか!」
「いいえ。殿下が調印を終えた時点で、爵位契約は成立しております」
ノエルは唇を震わせた。
「……わかった。今すぐは無理だが、賠償金は必ず払う」
「かしこまりました」
セラフィーナは淡々と続ける。
「次に、王家と臣下の貴族が婚姻する場合、支度金が発生します。これはかなりの高額です。今回ヴァルモンド家は、昨年度の領内収入の半分を王家に納めることで合意しておりました。ベアトリス様に婚約者が変わった場合も、同様に支度金が必要です。ご当主様には確認されましたか?」
「……いいえ。父にはまだ何も……」
「そうでしょうね」
セラフィーナは静かに息を吸った。
「さらに申し上げますと――ここ三百年、王家が公爵家以下の貴族を正妻として迎えた例はございません。ベアトリス様の生家は伯爵家。元老院も、国王陛下も、是とはされないでしょう」
「これまでないなら、新しくやればいいじゃないか!」
「伝統と格式を重んじるのが、王家と貴族の務めかと存じます」
(……殿下が一番重んじていないのですが)
ノエルは言葉を失った。
「そして何より――私との婚約を白紙にするということは、国王陛下の決定に背くということです。殿下は、どうされるおつもりでした?」
「ち、父上は話せばわかってくれるはずだ」
セラフィーナは胸の奥で小さく息を吐いた。
「そうかもしれません。ですが、こうして挙げただけでも、多くの問題があることをご承知ください」
「し、しかし……」
「殿下、もう止めましょう!」
その瞬間だった。
ベアトリスが涙を浮かべ、二人の間に割って入った。
「セラフィーナ様、本当に申し訳ございませんでした。私……有頂天になって、考えが足りませんでした。殿下との婚約は撤回いたします。ですから……どうか、殿下とのことを考え直していただけませんか?」
「……ノエル殿下がそのようにお望みであれば、私は異存ございません」
セラフィーナは静かに頷いた。
――大勢の前で恥をかかされた。それでも、被害を最小限に抑えるには、ここで踏みとどまるしかない。
ベアトリスは震える声で続けた。
「……ほんのひと時でも殿下と心が通ったと思えたことが、私は幸せでした」
その言葉は幼く、責任ある貴族としては不適切だった。
悪意は感じない。
ベアトリスは、身分差を越えて優しく接するノエルに、物語の王子様を重ねてしまっただけなのだ。
「殿下は、セラフィーナ様のことが嫌いなわけではないのですよね?」
「もちろんだ。セラフィーナはボクにとって姉も同然だ。どんな時でもボクを導いてくれた」
――姉。
その言葉が胸に刺さる。
小さい頃は、ノエルに「セラお姉ちゃん」と呼ばれていた。
セラフィーナは、幼馴染で半年生まれが遅いノエルを弟のように大切に思ってきた。
恋愛感情はなかったが、親愛はあった。
だからこそ、婚約破棄は深く響いた。
「ノエル殿下はセラフィーナ様と結婚されるべきです」
「ベアトリス、待ってくれ」
「殿下、ベアトリスはどこにも行きません。少し離れた場所から、お二人を見守っています」
琥珀色の瞳に涙を浮かべ、ベアトリスは微笑んだ。
その無責任な夢語りに、セラフィーナの胸はじわりと焼けついた。
「……わかったよ、ベアトリス。でも、ボクのことを忘れ……いや、何でもない」
「はい、殿下」
互いの手をとり涙する姿を見せつけられて、セラフィーナはうんざりした。
(未だ恋する二人には、私が映っていないのですね。映す気もないのでしょうけれど)
セラフィーナは静かに息を整えた。
「では殿下。申し訳ございませんが、舞踏会に戻り、先ほどの発言は余興だったと訂正していただけますか」
「……わかった」
「しばらく良くない噂が立つかもしれませんが、致し方ありません。ベアトリス様も辛抱してください。何かございましたら、ご相談ください」
「かしこまりました、セラフィーナ様」
――これで、春の舞踏会の乱は収まるはずだった。
だが、三人が舞踏会場に戻ると、事態は想定外の方向へ転がっていた。
舞踏会場は、先ほどまでの華やぎが嘘のように消え、どこか歪んでいた。
ざわめきが、波のように三人を押し返した。
シャンデリアの光は変わらないはずなのに、どこか冷たく感じられた。
そして――そこに、いるはずのない人物が立っていた。
現国王、グスターヴ・ベルメストリア。
王家の紋章入りの外套は羽織っていない。
代わりに、気安い友人宅を訪れたかのようなラフな服装。
だが、その佇まいは紛れもなく王だった。
旧友である学園長と秘蔵の酒を酌み交わすためにお忍びで訪れていた。
騒ぎを聞きつけ、セラフィーナたちと入れ違いで、舞踏会会場に駆け付けた。
わずかに酒気を漂わせながらも、目は鋭く冴えている。
周囲の学院生たちは、誰一人として声を発せず、ただ息を潜めていた。
国王は、ノエルを一瞥した。
「ノエル、婚約破棄と聞いた。どういうことか……説明してもらおう」
低く静かな声だった。
だが、その一言で舞踏会場の空気が凍りついた。
「ひっ」
短い悲鳴を漏らし、ノエルは震え上がった。
ようやく、自分が招いた事態の重さを理解したのだろう。
セラフィーナは、胸の奥で小さく息を整えた。
――ここでノエル殿下が「余興でした」と言えば、厳重注意で済む。
むしろ、それが最善だ。
そう思った、その瞬間。
「父上、聞いてください。ボクはセラフィーナ・ヴァルモンド嬢との婚約を白紙撤回します。そして……こちらのベアトリス・ノワール嬢と婚約します。どうかお許しください」
「――?!」
セラフィーナは、声を失った。
ベアトリスも息を呑み、顔を真っ青にする。
国王はしばらくノエルを見つめ、やがて白いものが混じる顎髭に指を添え、低く息を吐いた。
「本気か?」
「は、はい……父上」
ノエルは蛇に睨まれた蛙のように固まっていた。
国王はしばし沈黙し、やがて、重く、静かに告げた。
「……わかった。ならば、この婚約が正しいものであると、態度で示せ」
「は、はい……」
その言葉は、許しではなかった。
逃げ道はないという宣告だった。
国王は次に、セラフィーナへ視線を向けた。
「セラフィーナ・ヴァルモンド嬢」
「はい、国王陛下」
「すまないが、バカ息子の様子を見て、余に報告してくれ。ヴァルモンド家には相応の対価を払おう」
「かしこまりました」
その瞬間、セラフィーナは悟った。
――これは、王命。
拒むことなどできない。
だが、国王の目は一瞬だけ柔らかく揺れた。
セラフィーナを知る者の、親しみと信頼の色だった。
「以上だ。ノエル、せいぜい精進せよ」
「は、はい」
国王が背を向けると、周囲の学院生たちは一斉に道を開けた。
その威圧感は、ラフな服装など関係なく、まさに王そのものだった。
国王が去った後、舞踏会場には重苦しい沈黙が残った。
ノエルとベアトリスは、何かを言い合っているようだったが、セラフィーナの耳にはもう届かなかった。
(――どうしてこんなことに)
セラフィーナは静かに頭を押さえた。
深紅のドレスの袖が、わずかに震えていた。
背筋に、冷たいものが落ちる。
この先のことが、何一つ想像できない。
自分はどこに向かうのだろう。
事態を受け容れるのに、セラフィーナはしばらくの時間を要した。
◇
――万全なはずのシナリオが、最後に狂った。
少し離れた柱の陰で事態を見守っていた第二王子セルヴァンが、腕を組み、誰にも悟られぬように小さく舌打ちした。
ノエルとベアトリスの暴走は想定通りだった。
親しいわけではないが、巻き込んでしまったセラフィーナには申し訳ないと思った。
貴族令嬢にとって婚約破棄は、致命的な汚点となり得る。
一度破棄された令嬢は、なかなかいい話が来ない。
大義のために犠牲はつきものだ。
玉座を掴んだ暁にはいずれ、何らかの形で酬いるつもりだった。
国王の登場は、完全に想定外だった。
そして、ノエルとベアトリスの婚約を認めたことも。
(父上は計り知れない……)
セルヴァンは、父王の老獪さをよく知っていた。
兄が善良すぎることも、理解している。
だからこそ、わざと距離を置き、揺さぶるのだ。
セルヴァンではなく、お気に入りである兄が成長することを期待して……。
そして――
本来なら悲劇のヒロインとして退場するはずだったセラフィーナも、舞台に残ってしまった。
(……面倒なことになった。だが、次の手を考えねばならない)
セルヴァンは心の中で呟き、新たに決意を固める。
そして、ただ一人、舞踏室を後にした。
お越しいただき誠にありがとうございます。
お時間がございましたら「ブックマーク」「いいね」「評価」「誤字修正」「感想」「ご意見」など頂けましたら幸いです。
一言でも「ここ好き」などあれば、ぜひ教えてください。




