第63話 王妹殿下は着せ替え人形
王宮は、戦場だった。
戴冠式に向けた儀礼の準備。
仕立て、配置、動線、警備。
大人たちが本気で走り回る中。
クロエの部屋も、別種の戦場になっていた。
机の上。
名簿、名簿、名簿。
家名、領地、特産品、隣接関係。
王国府寄り、中立、反王国府。
奥方の性格(宰相のメモ付き)
ご令嬢の年齢・趣味(分かる範囲)
「…多くない?」
「多いっていうか、無理じゃない?」
七歳の身体に、30代社畜の脳をフル回転させる拷問。
クロエは椅子に突っ伏した。
「やばい…胃が…」
「いや胃より脳が…」
紙束をめくる指が止まる。
「この人誰だっけ…あ、北の羊毛」
「こっちは塩か」
「こっちは…あ、政略結婚で揉めた家だ」
情報が多すぎる。
しかも、間違えたら政治事故。
クロエは、ついに限界を迎えた。
「リディアぁ…」
声が、完全に泣き言だった。
部屋の隅で控えていたリディアが、すっと近づく。
いつもの凛とした侍女の顔だが、クロエの様子を見ると、少しだけ柔らかくなる。
「どうなさいました、クロエ様」
クロエは顔を上げる。
目が、完全に死んでいる。
「これ…全部覚えろって…無理でしょ」
リディアは名簿を一枚取り、ちらりと目を走らせた。
(これは、確かに地獄ですね)
内心そう思いながらも、表には出さない。
「全部覚える必要はありません」
クロエが、ぱっと顔を上げる。
「え?」
リディアは椅子を引き、クロエの隣に腰を下ろした。
侍女としては少し近い距離。
でも今は、それが必要だった。
「クロエ様は、試験を受けるのではありません」
「会うのです」
クロエは、ぽかんとする。
リディアは続ける。
「重要なのは三つだけです」
指を立てる。
「一つ。相手の名前と家名を間違えないこと」
「二つ。領地の誇りを一つだけ覚えること」
「三つ。聞く姿勢を崩さないこと」
クロエは、少しだけ呼吸が楽になる。
「…それだけ?」
「それだけです」
リディアは、珍しく微笑んだ。
「奥様方は、殿下が全てを知っているとは思っていません」
「むしろ、若いのによく話を聞くことを望んでいます」
クロエは、じわっと目頭が熱くなる。
「…俺…いや、私…」
「失敗したらどうしようって」
リディアは、少しだけ声を落とす。
「失敗しても、よいのです」
クロエが驚いて見る。
「クロエ様は王妹殿下です」
「女王陛下ではありません」
「だからこそ」
「完璧である必要はない」
リディアは、クロエの手にそっと自分の手を重ねた。
「それに」
「殿下は、もう十分に頑張っています」
その一言で、クロエの堤防が決壊した。
「つらい…社交って…こんなに」
声が震える。
泣くまいとしたが、無理だった。
リディアは何も言わず、
そっとクロエの頭を自分の胸元に寄せた。
「少しだけ、休みましょう」
「うん…」
クロエは、子どもらしく小さく丸くなる。
(ああ…)
(俺、甘えてるな)
でも、不思議と罪悪感はなかった。
リディアの手が、静かに背中を撫でる。
「クロエ様」
「ん…?」
「戴冠式前の茶会が終わったら」
「お好きなお菓子を用意させます」
クロエが、少しだけ顔を上げる。
「ほんと?」
「ええ、幕府由来の米菓も」
クロエの目が、きらっと光る。
「…がんばる」
リディアは、心の中で微笑んだ。
(この方は、弱い)
(けれど折れない)
王宮は忙しい、女王は戦っている。
そして王妹もまた、
別の戦場で、必死に踏ん張っている。
それを知っている者が、
少なくとも一人、ここにいた。
お茶会の日が近づいてくる。
クロエの部屋には、普段なら絶対に置かれないものが並んでいた。
布、リボン、レース、宝石箱。
鏡が増えて、椅子が減って、空気がやけに甘い。
そしてその中心に。
「いま着せ替え人形になってません?」
クロエがぼそっと呟くと、背後からリディアが即答した。
「はい」
「即答!?」
「事実ですので」
クロエが抗議しようとした瞬間、扉がノックもなく開く。
「入るわよ」
太陽みたいな金髪を揺らして、アリシアが入ってきた。
普段は書類と戦っている女王陛下なのに、今日は明らかに表情が違う。
手には布見本の束。
そして、その後ろに仕立て屋が二人。
クロエは嫌な予感がした。
「…姉ちゃん、その顔やめて」
「その顔、完全に楽しいことを見つけた顔だ」
アリシアはさらっと言った。
「息抜き」
「それ息抜きでやる量じゃない」
リディアが、静かに補足する。
「陛下は先程まで、三時間連続で書類に勝利されました」
「今は、勝利の余韻を消費する必要があります」
「消費ってなに!?」
アリシアはクロエの前に布を広げて、目を輝かせる。
「これ、港都の工房の絹。光が綺麗」
「こっちは幕府由来の織り。触り心地が違う」
「そしてこれ」
仕立て屋が箱を開ける。
中には薄い銀糸の刺繍。
アリシアが言った。
「月の刺繍、あなたに似合う」
クロエは反射でツッコんだ。
「月って言うな!」
アリシアがにこりと笑う。
「月じゃないなら、何?」
クロエは口を開けて、閉じた。
(詰んだ)
リディアが嬉しそうに頷く。
「月でございますね」
「リディアまで裏切るな!」
「裏切りではありません、真実です」
クロエが抗議している間にも、仕立て屋たちは手際よくクロエを立たせ、袖を通し、ピンを留め、布を当てていく。
「ちょ、待って、待って!」
「心の準備が!」
アリシアはクロエの周りをぐるっと回りながら、真剣そのもの。
「首元は詰めすぎない。七歳らしさが消える」
「でも甘すぎるのもダメ。諸侯の奥方は舐める」
「色は白銀寄り。髪が銀だから、沈まない」
「アクセは控えめ。目立つのはクロエ自身」
クロエは思わず見上げる。
「…姉ちゃん、ほんとに息抜き?」
「息抜きよ」
「その目が仕事の目なんだよ!」
アリシアは、鏡越しにクロエを見て少しだけ口角を上げた。
「いい?あなたが可愛いのは武器」
「可愛いまま、舐められない形にする」
クロエが固まる。
(こいつ…怖い…)
(可愛いを政治に変換してくる)
リディアが、心底楽しそうに頷く。
「はい。クロエ様はとても可愛らしいです」
「ですが、可愛らしいだけではございません」
クロエは呻く。
「やめて…心が追いつかない」
仕立て屋が最後にリボンを当てる。
淡い色。月明かりみたいな、目立たないのに目が離せない色。
アリシアが言った。
「これにしましょう」
「見た瞬間、王家だと分かる。でも、主張しすぎない」
リディアが、ぱっと手を叩きたいのを我慢している顔で言う。
「素晴らしいです」
「クロエ様、まるで」
クロエが身構える。
「まるで?」
リディアは言った。
「月の妖精です」
クロエは鏡を見る。
そこには、銀髪で、瞳が澄んだ、ちょっとだけ緊張した顔の少女。
(あ、やばい)
(ほんとに…可愛い)
感傷に浸りかけた瞬間、アリシアが後ろから肩に手を置いて、あっさり現実に引き戻す。
「可愛い」
「よし。これで諸侯を殺せる」
クロエが叫ぶ。
「物騒すぎ!!」
リディアが真面目に頷く。
「社会的に、でございますね」
「そこ補足されても怖いわ!」
アリシアは珍しく楽しそうに笑った。
ほんの少しだけ、十三歳の少女の顔が戻る。
「クロエ」
「あなたが表に立つのは、怖いと思う」
クロエは黙る。
アリシアは続ける。
「でも、私がひとりじゃないと示せば」
「王国は、少しだけ息ができる」
そして、声を落として、姉の顔になる。
「一緒にやろう」
クロエの胸の奥が、ぎゅっとする。
「…うん」
リディアが、そっとクロエの背を整える。
まるで鎧を着せるみたいに。
「では、最後に歩き方の確認です」
「クロエ様。ここから、鏡まで」
クロエは呻く。
「まだあるの!?」
アリシアとリディアが、珍しく息ぴったりに言った。
「あります」
こうして王宮の一室で、
女王と王妹と侍女が、
世界で一番平和な作戦会議を始めるのだった。
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