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第61話 王妹殿下とお姉ちゃん

レーヴェン侯は、淡々と述べる。


「カタリーナは、強かった」

「だが、強さを誇示しなかった」


「泣くときは泣いた」

「怒るときは怒った」

「笑うときは笑った」


「…だから、人が付いてきた」


アリシアの仮面が、きしむ。


「お祖父様、それは…」


「国のためか?」


レーヴェン侯が遮る。


「昨日も言ったな」

「国のため、国のためと」


レーヴェン侯は少し身を乗り出した。


「聞け」

「国のために、人を捨てる王はいる」

「だが、国のために自分を捨てる王は、最後に国も捨てる」


アリシアの唇が僅かに震える。

怒りか、恐れか、痛みか。


クロエは、そこで口を挟んだ。


小さな声。

でも、逃げない声。


「…お姉ちゃん」


その呼び方が、食卓の空気を変えた。

女王ではなく、姉に戻す言葉。


アリシアが、クロエを見る。


クロエは、喉が詰まりながらも続けた。


「昨日さ…お姉ちゃん、勝ったんだよ」


「勝ったのに…勝った顔じゃなかった」


アリシアの目が揺れる。

揺れたまま、仮面で押さえつけようとする。


「私は——」


「怖かった」


クロエが被せた。


「ルドルフのせいじゃない、お姉ちゃんが怖かった」


言ってしまった。

でも言うしかない。


「お姉ちゃんが、どっか行っちゃいそうで」

「もう戻ってこない気がして」


朝食の席に、沈黙が落ちる。


リディアは視線を落とし、手を胸の前で固く組んでいる。

侍従は石みたいに動かない。


アリシアが固まる。


彼女は女王だ。

だから涙を見せられない。だから怒鳴れない。

だから…息ができない。


レーヴェン侯が、最後の一手を打った。


「アリシア、今日は会議に出るな」


命令ではない。提案でもない。


家族の言い方だった。


「私が出る、宰相もいる。お前が抜けても回る」


アリシアの口が開き、閉じる。


反射で否定したい。

だが、否定すればするほど壊れていく。


レーヴェン侯はさらに言った。


「朝食の後、庭に出ろ」


「クロエと二人で、歩け」

「女王の時間ではない、姉の時間だ」


アリシアの指が、テーブルクロスをきゅっと掴んだ。

白い布がわずかに寄る。


それが、仮面の亀裂だった。


クロエは言った、最後のひと押し。


「お願い…お姉ちゃん、戻って」


アリシアは、長い沈黙のあとで、ほんの少しだけ頷いた。


「……十分だけ」


その声は女王の声じゃない。

少女の声だった。


レーヴェン侯は何も言わず、カップを手に取った。

ただ、静かに息を吐く。


(間に合った、間に合わせる)


クロエは、胸の奥でそれを感じた。


朝食の席で始まったのは、政治ではない。

壊れかけた女王を、家族が引き戻すための、

小さくて決定的な戦いだった。




王宮の庭。


朝の光が、まだ低い位置から差し込み、芝生の上に長い影を落としている。

噴水の水音だけが、静かに響いていた。


「ここまででいい」


アリシアがそう言うと、近衛は一礼して距離を取った。

リディアも無言で下がる。

影は、さらに遠く、木立の陰へ溶ける。


二人きり。


いや、姉妹だけの空間。


クロエは一歩、庭に踏み出した。

朝露に濡れた石畳が、ひんやりと靴裏に伝わる。


アリシアは歩き出さない。

ただ、庭を見ている。


女王としてではなく。

何かを失ったまま、立ち止まっている人間として。


「…ここ、覚えてる?」


アリシアが、ぽつりと口を開いた。


クロエは首を傾げる。

記憶はある。だがそれは曖昧なものだ。


「えっと…噴水?あ!…鳩?」


アリシアは、ほんの一瞬だけ笑った。


「そう。鳩」

「お母様がね、あなたを抱いて、よくここを歩いてた」

「近衛を動かして、人払い大変だったのよ」


アリシアの視線は、噴水の縁をなぞる。


「あなたが鳩を見ると、必ず手を伸ばすから」

「危ないって言ってるのに、嬉しそうで…」


声が、少し揺れる。


クロエは、何も言わずに、そっと横に立った。

近づきすぎない。離れすぎない。


アリシアは続ける。


「昨日ね」

「全部、正しいことをしたと思う」


クロエは黙って聞く。


「ルドルフを止めた、国を守った、血は最小限だった」


「…でも」


アリシアの指先が、ぎゅっと握られる。


「何かが、空っぽになった」


クロエの胸が、ちくりと痛む。


(ああ…)

(これ、俺が知ってるやつだ)


前世で。仕事で。修羅場で。

「正しい判断」を積み重ねたあとに来る、あの感覚。


「お姉ちゃん」


クロエは、意を決して口を開いた。


「それさ、多分正解なんだと思う」


アリシアがクロエを見る。


「でも、正解ってしんどいんだよ」


アリシアの目が、少しだけ見開かれる。


クロエは続けた。


「俺…いや、私?」

「前にさ、いっぱい正解出してた人、知ってる」


「毎回正しくて、誰も文句言えなくて」

「でも、ある日突然いなくなった」


アリシアは黙っている。


「理由、簡単でさ」

「正解しか許されなくなったから」


風が、庭を抜ける。

噴水の水音が、少し大きく聞こえる。


アリシアの肩が、ほんのわずかに下がった。


「…私は、泣いてはいけない」


女王の言葉。

でも、もう力がない。


クロエは一歩、近づいた。


「今はいいよ」


アリシアが息を呑む。


「ここ庭だし、誰もいないし」

「俺…妹だし」


最後の一言が、決定打だった。


アリシアの唇が震え、

そのまま、堪えていたものが溢れた。


音はない、嗚咽もない。

ただ、ぽろりと涙が落ちる。


クロエは、何も言わずに、そっとアリシアの腰にそっと手を回した

小さな手、逃がさない程度の力。


アリシアは、しばらくそのまま泣いた。


女王ではなく。

十三歳の少女として。


どれくらい経ったのか。

アリシアが、静かに息を整える。


「…ありがとう」


小さな声。


クロエは、いつもの調子で返す。


「どういたしまして、あとで請求書回すね」


アリシアが、思わず吹き出した。


「なにそれ」


「慰謝料、精神ケア費用」

「姉妹割引で半額」


笑い声が、庭に落ちた。


短い。でも、確かな笑い。


アリシアは、空を見上げた。


「…戻らなきゃ」


「うん」


「女王に」


「うん」


「でも」


アリシアは、クロエを見る。


「また、ここに来よう」


その言葉に、クロエは少しだけ胸が熱くなった。


「呼ばれなくても来るよ」

「俺、月だし」


アリシアは微笑んだ。


太陽が、少しだけ柔らかくなった瞬間だった。


遠くで、近衛が動き出す気配がする。

リディアも、ノクスも、役目に戻る。


庭の時間は終わる。


だが——壊れかけた女王は、戻ってきた。


そのことを、誰よりもクロエが理解していた。

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