第60話 王妹殿下と壊れかけの女王陛下
港都の喧騒が遠く、王宮の灯りだけが静かに揺れていた。
あれほどの一日が終わったというのに、空気はまだ血の匂いを覚えている。
王妹殿下の私室。
クロエは寝台の端に座り、膝の上で手を握っていた。
(…やばい)
心の中の社畜が、いつもみたいに毒づけない。
毒づく余裕がない。
アリシアは強い、強すぎる。
しかし今日、ルドルフの叫びを聞いた瞬間、姉の中の何かが『決定』された。
あれは、立ち直ったのではない。
固まったのだ。氷みたいに。
(このまま行ったら、姉は『壊れた女王』になる)
クロエの背中に冷たい汗が落ちる。
助けたい。
でも、どう助ける?
考えるまでもない。
家族のことを、姉より長く知っている人。
姉が女王になる前の顔も、知っている人。
そして姉に、まだ届く人。
祖父、家族であるレーヴェン侯。
クロエは立った。
リディアがすぐに気づいて、駆け寄る。
「姫様、夜更けです。どちらへ…」
「お祖父様のところ」
クロエは短く言った。
自分でも驚くほど、声が真剣だった。
リディアの顔が引き締まる。
事情を聞かずとも、空気で分かる。
「護衛を」
「つける。でも、騒がないで」
クロエは息を吸い、付け足す。
「…今、騒ぐと、壊れる」
リディアは頷いた。
そして、最低限の護衛だけを静かに動かす。
レーヴェン侯の客間は、廊下の奥。
扉の前には近衛が一人。
クロエを見ると、何も聞かずに道を開けた。
(…まだ起きてるな)
クロエがノックする前に、低い声がした。
「入れ」
扉を開くと、レーヴェン侯は机に向かっていた。
書状をまとめ、地図を広げ、短刀とペンを並べている。
戦場の後の執務。老獪な騎士の手つき。
火を落とした暖炉の前、椅子に腰掛けているのに背筋が直い。
疲れているはずなのに、目だけが冴えていた。
クロエは一歩入った瞬間、言葉が詰まった。
祖父は、こちらを見ただけで、全てを察した顔をしていた。
「…来ると思っていた」
クロエは唇を噛む。
「お祖父様」
自分の声が幼い。
いや、身体が幼いのだから当然だ。
クロエは社畜脳をフル回転させる。
相手のカードを読む。
空気を読む。
そして、結論だけを出す。
「姉が…危ない」
レーヴェン侯は、ゆっくり息を吐いた。
「そうだ」
即答だった。
その一言が、クロエの胸に重く落ちる。
「今日、ルドルフの叫びを聞いたとき」
「アリシアの中で、何かが壊れた」
レーヴェン侯は机の上の紙を、指先で押さえた。
紙が震えるほど強くは押さえない。
ただ、確かめるように。
「壊れた女王は、国を守れる」
「だが…国が救われても、人が死ぬ」
クロエが思わず言った。
「…姉が」
レーヴェン侯は頷く。
「そして、お前も」
クロエは息を呑む。
自分のことまで見抜かれている。
「お前は今日、アリシアの『冷たさ』を見た」
「そして、少し安心しただろう」
クロエの喉が鳴る。
(…くそ、図星)
姉が冷酷なら、合理なら、勝てる。
帝国にも連邦にも、諸侯にも。
でも、それが『姉』じゃなくなるなら。
クロエは言い直す。
それすら、今はちゃんとやらないといけない気がした。
「姉を、女王にしたいんじゃない」
「姉に、家族になってほしい」
レーヴェン侯の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「言えるな」
クロエは必死に言葉を繋ぐ。
「処刑できないのも分かる」
「あそこでルドルフを斬ったら、国が死ぬ」
クロエは言葉を詰まらせる。
「…あれ、正しいよ、正しいけど…」
「姉の目が、戻ってこない気がした」
レーヴェン侯は、しばらく黙っていた。
沈黙が、答えの重さを増やす。
「アリシアは賢い。賢すぎる」
「今日、アリシアは勝った」
「だから次からは、負けない方法しか選ばなくなる」
クロエは拳を握る。
「止めたい」
「止められるか?」
レーヴェン侯の問いは、試す問いではない。
現実の問いだ。
クロエは、答えを持ってきた。
「…私がやる」
レーヴェン侯の眉が動く。
クロエは続ける。
「妹として」
「政治の相棒としてじゃない」
「今日の姉には、相棒は要らない」
「要るのは…家族だ」
(くそ、恥ずい)
恥ずい、でも言う。
言わないと姉は氷になる。
「お祖父様、協力して」
「姉を『女王』から、少しだけ引き剥がす時間を作って」
レーヴェン侯は、クロエの顔をじっと見た。
七歳の顔。
その奥の、三十代の焦りと覚悟。
クロエは息を吸う。
「明日」
「姉を、私と二人にして」
「女王の時間じゃなくて、姉の時間を作る」
「何を言うかは、私が決める」
「でも、場を作れるのはお祖父様だけだ」
レーヴェン侯は、やっと頷いた。
「分かった」
それだけ。
だが、その一言がクロエにとって、今夜一番の救いだった。
レーヴェン侯は立ち上がり、窓際へ行く。
外の闇を見ながら、静かに言う。
「クロエ」
「アリシアは壊れかけている」
「だが、まだ壊れていない」
「壊れる前に、引き戻せ」
クロエは小さく頷く。
「うん」
そして、心の中でだけ言った。
(お姉ちゃん、頼むから…戻ってこい)
翌朝。
港都は、昨日の騒乱が嘘のように静かだった。
いや、静かすぎた。
人の声が控えめで、足音が慎重で、笑いが薄い。
王宮も同じだ。
廊下を行き交う侍従や近衛は、誰もが何かを飲み込んで歩いている。
目が合えば深く頭を下げ、すぐに視線を逸らす。
その空気の中で、朝食の席だけが、異様に整っていた。
銀の食器、香草の匂い。
焼きたてのパンの湯気、温かい茶。
日常という形だけが、ここに置かれている。
アリシアはすでに席にいた。
背筋は真っ直ぐ、指先まで統制された所作、微笑も完璧。
女王の仮面は、昨夜より厚い。
クロエは椅子に座らされながら、喉の奥がきゅっとなるのを感じた。
(…やっぱ、戻ってない)
隣にはリディア。
目線だけで「大丈夫です」と言ってくる。
そして少し離れた位置に、レーヴェン侯が座っている。
祖父はいつものように背が高く、無駄のない姿勢で紅茶を口に運ぶ。
その姿は落ち着いているが、クロエには分かった。
祖父は、今から戦う。
剣ではなく、言葉で。
アリシアが淡々と切り出した。
「本日の予定を確認します」
「その前に」
レーヴェン侯が、静かに言った。
場の空気が一瞬で止まる。
侍従が思わず一歩引き、リディアも息を止める。
アリシアの視線が祖父へ向く。
表情は変わらない。
だが予定外であることだけは確かだ。
「…何でしょう、侯爵」
侯爵
言葉は丁寧だが、距離がある。家族ではない、女王と臣下の距離。
レーヴェン侯は、アリシアではなくクロエを見た。
「昨日の夜、クロエと話した」
アリシアの瞳が、ほんのわずかだけ細くなる。
クロエは背筋が伸びた。
(来た)
レーヴェン侯は続ける。
「クロエは、怖かったそうだ」
アリシアの手が止まった。
「…何が、ですか」
声は平坦。
だが、薄い氷の下で水が動く音がした。
レーヴェン侯は、言葉を選ばない。
「お前だ」
朝食の席が、完全な沈黙に沈む。
アリシアの微笑が、動かない。
だが目が動いた、クロエを見る。
クロエは、逃げずに見返した。
(言ったよ。俺、言った)
(だから…聞けよ、姉ちゃん)
レーヴェン侯は、さらに踏み込む。
「昨日、ルドルフの叫びを聞いたとき」
「お前は壊れた」
アリシアの眉がわずかに動く。
否定の気配。反射。
「私は壊れていません」
即答。女王の声。
レーヴェン侯は頷く。
「そうだな。まだ壊れていない」
「だから言っている」
その『まだ』が、アリシアの胸に刺さる。
レーヴェン侯は、カップを置いた。
音が、妙に大きく響いた。
「アリシア、お前は女王だ」
アリシアの目が、少しだけ冷たくなる。
肯定の気配。
その言葉は、彼女の盾だ。
祖父は続けた。
「だが、女王である前に、お前はカタリーナの娘だ」
その名前が出た瞬間、アリシアの呼吸が乱れた。
ほんの一瞬だけ、誰も気づかないほど。
でもクロエは気づいた。
(刺さった、仮面に少しだけどひびが入った)
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