第57話 王妹殿下と武人の誇り
「異国の女王」
「よい庭だ、よい敵だ」
その声が終わる前に、真田は踏み込む。
今までで最速。
刃が、光の線になる。
レーヴェン侯は、目を細めた。
そして。
剣を、わずかに下げた。
一瞬、隙に見えた。
真田の目が光る。
その隙に刃を差し込む。
だがそれは、誘いだった。
レーヴェン侯の剣が、下から跳ね上がる。
真田の刃の腹を叩き、軌道を僅かに逸らす。
僅かだ。
だが、達人同士の一寸は命だ。
真田の刃が首筋を掠める。
血が一筋。紅が飛ぶ。
同時に、レーヴェン侯の剣先が真田の胸元を裂いた。
装束が裂け、肌が見え、血が滲む。
両方、浅い。
浅いのに、庭の空気が凍った。
互いに当てた、殺せた。
互いに殺さなかった。
その意味が、重すぎる。
真田が笑う。
血の滲む唇で。
「人を超えているのは」
「俺ではない、お前だ」
レーヴェン侯は、初めて言葉を返した。
「…違う」
目が、戦の目のまま。
「お前もだ」
その瞬間、誰もが確信した。
この二人は、もう“強い”では語れない。
人の枠を、人の寿命を、人の恐れを、その場で踏み越えている。
そして——この戦いの結末は、単なる勝敗では終わらない。
アリシアは、笑っていた。
なくとも、周囲にはそう見えた。
諸侯に向ける薄い微笑。
背筋、顎の角度。
すべてが、女王として正しい。
けれど、その目だけが違う。
瞳孔が、ほんの僅かに開き。
虹彩の奥で、計算ではない本能が目を覚ましていた。
(…鋭い)
アリシアは剣を知らない。
剣術の型も、間合いも、足捌きも、言葉としては理解していない。
だが、魔法は分かる。
幼い頃から魔力が高かった。
溢れるものを抑える方法を教え込まれた。
息を整え、流れを絞り、必要な箇所へだけ回す。
魔力の扱いは、呼吸と同じ。
嘘をつけない。
だから分かる。
中庭の中央で交差する二つの流れが、ありえないと。
レーヴェン侯の魔力は、大河のように太い。
本来なら、太い流れは鈍い。
立ち上げに時間がかかり、方向転換も重い。
なのに、彼のの魔力は太いまま、細く動いている。
一瞬で収束し、一瞬で解放し、また一瞬で沈む。
まるで、太い川が、同時に無数の細流に分かれているような。
そんな制御は、人間の器では難しい。
そして真田。
あの男は、魔力が見えにくい。
魔法使いではないはずだ。
…それなのに。
刃が走る瞬間、魔力が一筋だけ立つ。
細く、鋭く、毒針のように。
立ったと思ったら消える。
消えたと思ったら、別の場所に立つ。
身体強化でもない。
遮蔽でもない、儀式でもない。
(…なに、これ)
魔法として分類できない。
それがいちばん気持ち悪い。
魔力の流れだけが、
剣の軌道と完全に同期している。
剣が魔法で動いているのではない。
魔法が剣で切られているみたいだ。
アリシアの喉が、ほんの少しだけ鳴った。
(…ありえない)
女王の仮面は、まだ剥がれない。
剥がせない。
この場には諸侯がいる。
彼らは太陽の揺らぎを見逃さない。
一瞬の迷いが、国内の火種になる。
だから、笑みは保つ。
背筋は崩さない。声は乱さない。
だが、視線だけは剣に吸い込まれる。
金属音、芝の裂ける音、火花。
——血。
首筋を掠めた赤が、レーヴェン侯の襟に滲む。
その色を見た瞬間。
アリシアの胸が、きゅっと縮んだ。
(お祖父様が…)
十三歳の心が、ほんの一瞬、顔を出す。
(負ける…かもしれない)
ありえない。
レーヴェン侯が負けるなど。
あの人は、勝つために生きてきた。
帝国とも連邦とも、数え切れない場で勝ってきた。
でも、真田の流れが鋭すぎる。
人の枠を外れている。
アリシアは、無意識に指先を握り込んでいた。
爪が手のひらに食い込む。
その痛みで、仮面が戻る。
(ここで揺らぐな)
(私は王だ)
だが、魔力の異常は消えない。
むしろ増していく。
レーヴェン侯の流れが一瞬だけ乱れる。
真田の針が、その隙を嗅ぎ取る。
刃が、喉へ。
間に合わないかもしれない。
そう判断した瞬間。
アリシアの仮面が、ほんの少しだけ剥がれた。
目が、微笑の端が、わずかに硬くなる。
そして、女王は決断する。
剣は分からない。
だが、盤面は分かる。
自分が動けば、諸侯は動揺する。
近衛が動けば、真田の狙いが変わる。
封魔を強めれば、レーヴェン侯の魔力にも抵触する。
最適は、ひとつ。
アリシアは、息を一つだけ深く吸い。
誰にも聞こえない声で、命じた。
「…ノクス」
影が、返事のない返事をする。
空気が一瞬だけ、歪む。
アリシアは微笑を取り戻したまま、諸侯へ視線を流す。
場の秩序を保ったまま。
女王の仮面を貼り直したまま。
その奥で、冷たい判断だけが走っている。
(お祖父様が負ける可能性があるなら)
(勝たせる)
家族のためではない。
王国のため。
そう言い聞かせる。
けれど、胸の奥の小さな本音が、
仮面の裏で震えていた。
(…お願い)
(負けないで)
中庭の中央。
金属の音が、途切れた。
刃と刃が噛み合ったまま、互いに押し切れず——ふっと、距離が生まれる。
その瞬間だった。
アリシアの胸の奥で揺れた何かが、ほんのわずか、魔力の膜を震わせた。
本人は隠したつもりでも、
鍛えた者には分かる。
動揺、そして影。
ノクスの気配が、空気の裏側で息をした。
出る前の気配。
牙が、こちらを向く直前の気配。
レーヴェン侯は、それを感じ取った。
刃を構えたまま、肩の力も抜かず、
しかし、ほんの一瞬だけ。
視線をアリシアへ送る。
言葉はない。
だが、命令は明確だった。
動くな。
アリシアの背筋が、ぴんと張る。
仮面が、貼り直される。
呼吸が整う。
(…はい)
心の中で返し、
女王は微笑を保った。
その一瞬。
視線が動いた時、確かに隙があった。
ほんの髪一筋。
達人なら、そこに刃を滑り込ませられる。
真田も感じていた。
この戦いに、水を刺そうとする気配がある。
異物、影、介入。
武士の本能が、苛立ちを覚える。
だが、レーヴェン侯がそれを制した。
剣で、ではない。
存在で制した。
たった一瞥で、
影の牙が引っ込むほどに。
真田は、その制し方を見て理解した。
(この男は、剣だけじゃない)
(背負っているものの重さで、世界を押さえる)
真田は、動かなかった。
隙は見えていた。
勝ちに行けた。
それでも、動かない。
それは慢心ではない。
慈悲でもない。
敬意だった。
真田は、すっと半歩下がる。
刃先をわずかに下げる。
血の匂いの中で、礼をした。
「…よい」
その一言が、庭に落ちる。
レーヴェン侯の口元が、初めて柔らかくなる。
「…貴様」
笑った。
戦場の笑いではない。
武人同士の笑いだ。
真田も、笑う。
「女王の庭で」
「余計な茶を飲ませるな」
レーヴェン侯は、短く鼻で笑った。
「犬は躾ける」
「心配するな」
真田は肩をすくめるように、刃を構え直す。
「なら、続けよう」
「ここからが本番だ」
レーヴェン侯も剣を戻す。
血が襟に滲んだまま、気にもしない。
「…そうだな」
二人の間に、再び戦が満ちる。
けれど…今しがた交わされたものは、斬り合いより濃かった。
敵同士なのに、
互いの背中を守った。
諸侯はそれを理解できない。
理解できるのは、鍛えた者だけだ。
アリシアは、微笑のまま目を細めた。
(…お祖父様)
仮面の裏で、少女の心がほんの少しだけ救われる。
真田の刀が、再び走る。
今度は、迷いがない。
だが、先ほどとは違う。
殺すための刃ではなく、
誇りを通すための刃。
レーヴェン侯の剣が、それを迎える。
世界が、また鳴った。
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