第55話 王妹殿下と女王の罠
王宮・中庭。
茶会当日。
空は高く、雲は薄い。
冬に向かう前の、いちばん騙されやすい陽気だった。
だからこそ、庭は整えられていた。
芝は短く刈られ、白い砂利は均され、花は控えめに。
華美ではない。だが、王家は折れていないと示すには十分な品がある。
席は円ではない。
左右に分け、中央に一本の道を空ける。
導線は見せるが、近づきすぎない形。
そして、女王はホストとしてそこに立っていた。
アリシア・フォン・ヴェルディア。
十三歳。
今日の彼女は少女ではない。
黄金の髪を束ね、背筋を伸ばし、微笑は薄く。
招かれた諸侯一人ひとりに、言葉を与える。
慰労を。労いを。
そして、逃げ場のない釘を、優雅に。
「このたびは、港都の混乱に際し、ご心配をおかけしました」
「皆様の迅速なご協力により、王国府は血流を取り戻しました」
「感謝いたします」
言葉は柔らかい。
だが、血流という語が、見事に釘だ。
港都が止まれば、誰が困るか。
諸侯全員が知っている。
諸侯の笑いは、心からではない。
笑いながら、互いの目を見て、探っている。
(今日の目的は慰労じゃない)
(月を見るためだ)
身体はまだ幼いのに、座り姿が妙に整っている。
それがかえって、怖い。
クロエの傍らには、リディア。
鎧ではない。礼装の侍女。
だが、あの足運びは護衛だ。
細い肩に、剣の家の芯がある。
そして、見えない場所。
芝の影。石柱の陰。
枝葉の向こう。
ノクス。
気配がない。
だが、いないわけがない。
クロエは茶を口に運び、微笑を作る。
作っているだけだ。
(この笑顔、営業で培った無の笑顔だよな俺)
と、心の中で吐き捨てる。
アリシアが諸侯へ杯を向ける。
手は震えない、声も乱れない。
「本日は、皆様に安心していただくための席です」
「王家は健在、王国府も健在」
「そして皆様も」
最後の一言に、諸侯の喉が少し鳴った。
『そして皆様も』
つまり、皆様が健在でいられるようにする。
反対に言えば、健在でなくすることもできる。
クロエはその言い回しに内心で舌を巻く。
(姉、外務官僚やっぱ強いわ……)
その時、庭の片隅。
木陰のさらに奥で、ひとりの老人が目を閉じていた。
レーヴェン侯。
武門の侯爵。
かつて騎士団長。そして今、女王の祖父。
彼は酒も茶も取らない。
挨拶も最小限、ただそこにいる。
それだけで、庭の空気が少し固くなる。
彼は目を閉じているのではない。
見ているのだ。視覚ではない。
呼吸を落とし、魔力を沈め、意識を研ぎ澄ます。
遠く。
地面の震え、草の擦れる音、人の流れの綻び。
(…来る)
レーヴェン侯は、目を開けなかった。
開ける必要がない。
それは、感覚ではなく確信だった。
来る。
庭の風が、ほんの一瞬だけ止まる。
鳥が鳴くのをやめる。
諸侯の笑い声が、薄く途切れる。
クロエは気づかないふりをした。
リディアの指先が、わずかにクロエの背に触れる。
“動くな”の合図。
アリシアは微笑を保ったまま、
手の甲を軽く叩いた。
合図。
石柱の陰が動く、芝の影が滑る。
近衛が、見える位置と見えない位置に、無音で配置されていく。
ノクスは、すでにそこにいる。
クロエの心臓が一度だけ強く鳴った。
幼い身体のくせに、こういう時だけ一丁前に反応する。
(頼むから、今だけは社畜の心臓でいてくれ)
(止まるな…)
アリシアの声が、庭に落ちる。
柔らかく、明るく。
「皆様、本日は最後まで——」
言葉の途中で、
アリシアの瞳がほんの僅かに細くなる。
彼女も感じたのだ。
祖父ほどではない。
だが、ここまで積み上げた経験が告げている。
レーヴェン侯の口が、ほとんど動かない程度に開く。
「来おった」
それは独り言だった。
しかし、その一言だけで、庭の空気が完全に戦場へ切り替わった。
港都の外れ。
海風の届かない、湿った土の匂いがする場所。
墓地は静かだった。
石碑の列に、月明かりが薄く貼りつく。
その石碑のひとつ。
“古い家”の名が刻まれた墓標の横で、王弟ルドルフは膝をついた。
指先が、迷いなく石を押す。
低い音、石がずれる。
石碑の根元がわずかに沈み、土の下で金属が擦れ合う。
墓地の片隅に、黒い口が現れる。
石段、冷たい空気。
そして、古い鉄の匂い。
ルドルフは笑わない。
笑えない。
胸の奥の熱が、目を焼いている。
(王だけが知る退路)
(…王だけが)
それを、自分は知っている。
王ではないのに。
王になれなかったのに。
偶然だ。
父と兄の会話を聞いた。
ただそれだけだ。
ただそれだけで、世界が歪んだ。
「…行くぞ」
背後の影が動く。
皇国資本の商会、その“倉”から流れ込んだ者たち。
少数精鋭。
持つのは銃と、刃と、狂気に近い忠誠。
そして、真田 源五。
薄い光の中でも分かる。
立ち方が違う、息が違う。
武器を構えずとも、そこに刃がある。
真田は、地下道の口を覗き込み、短く言った。
「湿っているな」
ルドルフは喉の奥で笑いそうになり、やめた。
「黙れ、時間がない」
真田は返事をしない。
返事の代わりに、刀の柄に指を置いた。
ルドルフは腰の布に包んだものを、そっと撫でる。
新式銃。
幕府の銃だ。
後装、速い、当たる。
そして、射程が長い。
(これで——これで、月を撃つ)
ルドルフの脳裏に、銀髪が浮かぶ。
あの“月”が現れてから、太陽は自分のものではなくなった。
月が、居場所を奪った。
月が、笑った。
月が、太陽の隣に立った。
許せるはずがない。
「…庭師の小屋は、すぐだ」
「そこから、庭園」
「茶会の会場は、目の前だ」
息が熱い。目が冴える。体が軽い。
真田が、ぽつりと言う。
「罠だな」
「分かってる」
「分かっていて行くのか」
「行く」
真田は、わずかに口角を上げた。
それは笑みではなく、武人の納得だ。
「よい」
「死に場所としては、上等だ」
ルドルフはその言葉に苛立ち、歩き出した。
地下道。
石の壁に水が伝い、足音が吸い込まれる。
王家が何百年も前に用意した、緊急の退路。
本来なら、王が最後に使う道。
今は、王になれなかった男の侵入路。
曲がり角を三つ。
小さな鉄扉。
そこを抜けると、空気が変わる。
土。草。そして、木の匂い。
庭師の小屋。
床板の下から、ルドルフはゆっくり顔を出した。
庭園は近い。
笑い声がする。
陶器が触れ合う音。風に乗って、甘い香り。
茶会だ。
(…いる)
遠目に見える。
黄金の髪、まっすぐな背、凛とした横顔。
アリシア=フォン=ヴェルディア
胸が、痛いほど熱くなる。
「…カタリーナ…いやアリシア」
呟いた瞬間、真田が背後で刀を抜く気配を見せた。
抜いていない。
ただ、抜く前の空気。
視線の先。
ひとりの男がいる。
立っているだけで、周囲の空気が変わる圧。
レーヴェン侯。
真田の瞳が細くなる。
獣が獲物を見つけた目。
「あれが、異国の勇者か」
ルドルフが唾を飲む。
怖い。
だが、それ以上に今は戻れない。
「源五、お前はレーヴェンを止めろ」
「立ち塞がる者は斬れ」
ルドルフは銃を取り出した。
布を外し、金属の冷たさを掌に感じる。
狙うは、月。
庭の奥、椅子の陰。
視界に入った瞬間、脳が焼けた。
(見つけた)
(あの月を撃てば、太陽は…)
「月を、撃つ」
ルドルフは銃を構えた。
その時だった。
庭の空気が、変わった。
不意に、風が止む。
笑い声が一瞬だけ、薄くなる。
レーヴェン侯が——視線を、ほんの僅かこちらへ向けた。
(…気づいた?)
ルドルフの指が引き金にかかる。
喉が渇く。
心臓が耳元で鳴る。
真田が、静かに前へ出た。
「行くぞ」
刀が抜かれる。
音が短い。滑らかで、冷たい音。
その瞬間、ルドルフの視界に“太陽”が揺れた。
アリシアが、立つ。
女王として立つ。
(…アリシア?)
ルドルフの反応が一瞬遅れる。
そして、庭の端。
石畳の影から、近衛が滑るように動いた。
同時に、空間が歪む。
見えない膜、重くなる空気。
足が、わずかに引かれる感覚。
(封魔!?)
ルドルフは歯噛みした。
(罠だと分かってたのに)
(でも…)
でも、引けない。
ルドルフは引き金を引こうとする。
しかし、ルドルフの指が震える。
狙いがぶれる。
狙うは月。
だが、視界には黄金。
耳には刃の音、足元は封魔。
(撃て)
(撃て)
(撃て——!)
ルドルフは、ついに引き金を引いた。
乾いた音が、庭に弾ける。
しかし。
その弾がどこへ向かったかを、
ルドルフは最後まで“見届けられなかった”。
なぜなら、次の瞬間。
アリシアの声が、庭に落ちたからだ。
「捕らえなさい」
その命令は、少女の声ではない。
王の声だった。
近衛が雪崩れ込む。
そしてルドルフは悟る。
(…違う)
(これは茶会じゃない)
(処刑台だ)
目の前の黄金が、
燃えるように冷たかった。
アリシアは、もう逃げない。
逃げる理由がない。
家族を奪われた王は、
二度と退路を残さない。
ルドルフの背筋を、冷たい汗が伝った。
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