第51話 王妹殿下は女王に問う
王妹殿下の私室は、奥の間とは違う匂いがした。
薬草でも乳でもなく、紙と木と、乾いた空気。
表に出るための部屋。
クロエはそこにいた。
窓際の小さな机。
まだ身体は小さいのに、癖で背筋だけは伸びてしまう。
伸ばしたところで、七歳の肩幅は七歳だ。虚しい。
側にはリディア。
控え室の空気を崩さない距離で、しかし視線は常にクロエの動きに置いている。
護衛と侍女の二役。彼女の立ち方は、それを誤魔化さない。
扉が小さく鳴った。
控えめで、礼儀正しいノック。
リディアが一歩前へ出て、声を低くする。
「…どなた」
「侍従でございます。王妹殿下に、女王陛下より」
リディアがちらりとクロエを見る。
クロエが顎だけで「入れ」と返す。
「どうぞ」
扉が開き、侍従が一礼して入ってきた。
手には封のない小さな書簡。
王宮内の伝令用。形式が軽いほど、急ぎだ。
「女王陛下より」
「中立諸侯を招き、慰労の茶会を催されるとのこと」
「王家が揺るがぬことを示すため、王妹殿下にも同席いただきたい、と」
侍従が言い終えると同時に、部屋の空気が一拍止まった。
クロエは笑わなかった。
泣きもしなかった。
ただ、胸の奥で社畜アラームが鳴った。
(…今?よりによって、今?)
(トラブルが一段落した直後の、いちばん刺されやすい時期に?)
確かに理由は通る。
中立派へのアピール、王家の健在、王妹の存在の正統化。
クロエ自身、お披露目を済ませたばかりだ。
ここで「見せる」のは、政治的に正しい。
正しすぎる。
「…承った、と伝えて」
クロエは、とりあえず侍従を返す言葉を選ぶ。
即答で拒むのは怪しい。即答で受けるのも危ない。
侍従が下がり、扉が閉じる。
静寂。
クロエは、リディアを見上げた。
見上げるしかない。七歳だ。
「リディア…これ、普通?」
リディアは一瞬だけ考えた。
クロエに対してではなく、状況に対して。
「理由は、理解できます」
「港都の件で揺れた諸侯を繋ぎ止める」
「お披露目を済ませた王妹殿下を、王家の一員として見せる」
「筋は通っております」
クロエは頷く。
筋は通る、だから余計に嫌だ。
クロエが続きを促す。
リディアの目が少し鋭くなる。
「今は、選びません」
「国葬の直後、王宮の警戒が上がっている時期」
「本来なら、式典よりも内の整備を優先します」
「茶会は…狙われます」
クロエの口角がわずかに上がった。
一致。嫌な一致。
「だよね、私もそう思う」
「女王陛下のご判断です」
「陛下は…危険を承知で、あえてなさる方です」
「ですが、王妹殿下を同席させる理由は」
「…撒き餌」
言ってから、背筋がひやりとした。
七歳の口から出る言葉ではない。
リディアの表情が一瞬だけ揺れる。
すぐに整え直すが、揺れた。
「殿下、そのお言葉は…」
「言わないよ、外では」
クロエは手を振った。
(いや、そもそも俺、手を振る所作すら“おしとやか”にしろって言われてたわ)
思考が余計なところに滑りかけるのを、クロエは無理やり戻した。
「ねえ、リディア」
「もし茶会が罠だとしたら、狙いは私じゃなくて、陛下だ」
「私を置くのは…陛下の勝ち筋を太くするため」
リディアの声が硬くなる。
「殿下を危険に晒す勝ち筋など」
「あるよ」
「この国は、そういう国だ」
「…そして姉は」
言葉を選ぶ。
「女王だから」
リディアは唇を噛んだ。
忠誠の対象はクロエだ。
だが、王宮の秩序の中心はアリシアだ。
板挟みになる。
クロエは、ふっと息を吐いた。
「姉に聞く、理由を」
「…ほんとは、聞かなくても分かるけど」
リディアが一歩近づく。
「殿下、無理はなさらないでください」
クロエが苦笑する。
「分かってる」
(中身は三十代社畜だけどな!とは言えない)
クロエは窓の外を見た。
王宮の庭、石畳、回廊、影、囲い…檻。
そして胸の奥で、別の不安がうごめいた。
クロエは、ゆっくりと顔を戻す。
「茶会の衣装、最悪動けるやつにして」
「ドレスでも、走れるように」
「…あと」
声が少しだけ小さくなる。
「刺されても死なない場所、覚えとく」
リディアの顔色が変わった。
「殿下!」
クロエは笑って誤魔化した。
「冗談だよ」
(冗談にしないと、リディアの心が折れる)
でも、冗談じゃない。
クロエの脳は確信していた。
この茶会、何かが起きる。
起きないなら、姉がこんな手を打つはずがない。
廊下は静かだった。
静かすぎて、逆に足音が響く。
クロエは歩く、しずしずと。
七歳の足で、七歳の歩幅で。
だが中身は違う、足取りの内側だけが妙に速い。
後ろにリディアが付く。
護衛として半歩遅れ、侍女として一歩引く。
その距離感は、剣よりも難しい。
それでもリディアは、崩さない。
そしてクロエは気づいた。
影がない。
いつもなら、視界の端に気配がある。
見えなくても分かる。
壁の陰、柱の向こう、回廊の継ぎ目。
そこにいるはずの、『犬』ノクスの気配が。
今日は、何もない。
リディアも同じことを感じているのが、背中で分かった。
彼女の歩幅がほんのわずかに詰まった。
(やっぱりだ)
(姉は、犬を外に出した)
そして確信が、重さを増していく。
茶会、王妹同席、慰労、健在アピール。
全部、表の言葉。
(罠だ)
(しかも、姉が主導のやつ)
クロエは喉の奥が乾くのを誤魔化すように、唾を飲んだ。
七歳の身体は正直だ、心臓が少し早い。
「殿下」
リディアが小声で言う。
「…ノクスの気配がありません」
クロエは頷いた。
声も小さく返す。
「うん、いないってことは——」
「必要な場所にいる」
リディアの顔が硬くなる。
必要な場所。つまり、危険がある場所。
クロエは、深呼吸を一つ。
ドレスの裾を乱さないように、手を添える。
所作は練習した。練習させられた。
こんな時に役立つの、腹立つ。
曲がり角を二つ、近衛が立っている。
いつもより多い、いつもより無言。
視線が鋭い。
(あー、これ完全にやってる)
クロエは内心でツッコむが、顔は王妹のまま。
近衛の一人が一礼する。
「王妹殿下、女王陛下は執務室にて…」
「通して」
クロエは丁寧に言う。
丁寧すぎると不自然なので、少しだけ子どもの柔らかさも混ぜる。
難易度高い。
近衛は一瞬迷う。
だが、クロエの後ろのリディアを見て、その迷いを引っ込めた。
剣の家の娘。副長の娘。信用できる護衛。
「…どうぞ」
扉の前、重い木、金具。
奥に人の気配がある。
アリシアだ。
そして、宰相の気配も薄くある。
だが、部屋の中心はアリシアの静けさ。
リディアが一歩前に出て、控えめにノック。
「入って」
声は短い。
疲れていない声。疲れていないのが、逆に怖い。
扉が開く。
執務室は整理されすぎていた。
書類が積まれていない、ペンも一本。
地図も閉じられている。
つまり、会議の部屋じゃない。
決断をする部屋だ。
アリシアが机の向こうにいる。
金髪はまとめられ、瞳は冴えている。
その姿は十三歳の少女ではなく、王だった。
クロエは一礼する。
礼法の地獄が、ここで生きる。悔しい。
「姉上」
アリシアの眉がほんの僅かに動く。
“お姉ちゃん”ではない。
公の呼び方。
つまり、クロエも覚悟して来たと理解した。
「クロエ」
アリシアは視線をリディアに移す。
「リディアも」
リディアが深く頭を下げる。
アリシアは言った。
静かに。先に、逃げ道を塞ぐように。
「茶会の件だね」
クロエは、机の前まで進む。
七歳の歩幅で、きっちり止まる。
そして、顔を上げる。
「…うん、聞きたい」
「本当に、中立諸侯の慰労だけ?」
アリシアは、数瞬だけ黙った。
その沈黙が答えだった。
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