第44話 港都騒乱⑩
アリシアは涙を拭った。
拭いきれていないのに、拭ったふりをした。
灯りの揺れる応接間で、彼女は深く息を吸う。
胸の奥に残る十三歳を、静かに押し戻す。
太陽に戻る時間だ。
アリシアは視界の端のツインリンクを開いた。
心まだ少し震えているのを、意地で止める。
アリシアは視線で入力する。
短い言葉を繋いで、命令にならないように…でも、命令にする。
『帰ってきて』
『危険』
『王弟 動いてる』
『気をつけて』
『一人で動かない』
『待ってる』
ツインリンクの向こうにいる月を思い浮かべる。
妹は今、祖父母の屋敷。
護衛もいる。
それでも、今夜の港都は静かすぎて怖い。
アリシアは画面を閉じて、祖父に向き直った。
「お祖父様」
声はもう揺れていない。さっきまでの涙が嘘みたいだ。
だからこそ、侯は胸の奥が少し痛んだ。
「クロエを戻してほしい」
「ただし、急がせすぎないでください」
「…道中で狙われる可能性がある」
レーヴェン侯が頷く。
短く、重く。
「護衛は厚くする」
「騎士団副長、ロルフなら任せられる」
「俺の私兵も数を割く、エリザベートならそう判断する」
「ありがとうございます」
アリシアは一拍置き、続けた。
「それと、中立派の取りまとめを、改めてお願いします」
「今は、港都を動かして血を戻す」
「その次は、国内を割らせない」
「ルドルフが“解放”を名目に諸侯をまとめる前に、こちらが先に“秩序”でまとめます」
「焦点は言葉だな」
「はい」
アリシアは迷わない。
「武力ではなく、正統性」
「ルドルフの言葉を、孤立させる」
「中立派がこちらにつけば、反乱は諸侯の私闘になる」
「外が入りにくくなる」
レーヴェン侯はゆっくり息を吐いた。
「だが、条件がある」
「お前は女王だ。隠れるな」
「怖い顔でもいい、若い顔でもいい」
「民が見るのは、お前の背中だ」
アリシアは、ほんの少しだけ唇を結んだ。
そして頷く。
「…はい」
ツインリンクが、ぴこんと鳴った。
返信はまだだ。既読もつかない。
(寝てるか、忙しいか)
(…無事でいて)
アリシアは画面を見ずに、心の中で言った。
(帰ってきて、クロエ)
(月がいない夜は、やっぱり寒い)
そして、女王は立ち上がった。
次の命令を出すために。
港都を動かし、国を繋ぎ、物語を渡さないために。
レーヴェン侯爵邸、早朝。
暖炉の火が小さく爆ぜ、広間の影を揺らしていた。
クロエはツインリンクの通知を見て、固まったまま数秒動けなかった。
金髪のデフォルメ、アリシアのアイコン。
短い単語の連打。
『帰ってきて』
『危険』
『王弟 動いてる』
『気をつけて』
『一人で動かない』
『待ってる』
“待ってる”。
胸の奥が、きゅっと締まる。
社畜の脳が先に働く。状況整理。タスク分解。
(戻れ、か)
(港都の血が戻った)
(次は、あの男の反乱フェーズ)
(つまり、ここはもう安全じゃない)
クロエは深呼吸して、テーブル向こうの祖母へ向き直った。
侯爵夫人エリザベート。背筋の伸びた、武門の家の女主人。
優しさと怖さが同じ目に入っている人だ。
「お、お婆様…」
声が少し上ずった。
七歳の声にしては大人びた響き。
クロエ自身、それが嫌で、言葉を短くする。
「陛下が、姉上が戻れって」
祖母の目が細くなる。
言外に、何かを察している。
「彼が動いたのね」
クロエは頷いた。
「最大限警戒って」
「それと、帰路は一人で動くなって」
何も言わず、祖母は立ち上がった。
迷いがない。
この家の戦のスイッチが入る音がした。
「分かりました、クロエ」
「あなたは戻りなさい」
夫人は扉の方へ視線を投げ、控えていた執事に命じた。
「ロルフ副長を呼んで、今すぐ」
執事が一礼して消える。
クロエは口を開きかけて、閉じた。
子供が口を挟む場面じゃない。
でも、ここは口を挟むべきだ。
(いや、俺は王妹だ)
(口を挟む権利はある)
(挟まなきゃ、後で後悔する)
クロエは、少しだけ背筋を伸ばした。
「…お婆様」
「私兵、出せますか」
夫人は、きっぱり頷いた。
「出しましょう」
「レーヴェン家の兵を」
「あなたを孫として送り返すのではなく」
「“王妹殿下”を護衛して送り返す」
その言葉に、クロエの背中が少し軽くなった。
ほどなくして、騎士団副長が呼び込まれる。
背が高く、鎧の擦れた男。
リディアの父。
敬礼の角度が深い。
「侯爵夫人、王妹殿下」
クロエは、短く言った。
余計な修飾はいらない。今は速度。
「ルドルフが動いてる、最大限警戒」
「帰路、狙われる可能性がある」
「…たぶん、港都に戻るその道が狙い目」
副長の表情が固まる。
理解が早い。彼は軍人だ。
「御意」
「護衛は二重にします」
「前後に斥候、街道の分岐は封鎖、夜襲を警戒し、休憩は最低限」
「……王妹殿下、よろしければすぐに出ます」
クロエは頷く。
眠いとか、寒いとか、そういう問題じゃない。
「あと…」
言いにくいが言う。
「魔法使いも欲しい」
「隠密が来るなら、目が必要」
ロルフはすぐに答えた。
「レーヴェン家の従騎士に、封魔の術が使える者がいます」
「侯爵夫人の許可があれば同行させれます」
「許可する」
祖母は、クロエの肩に手を置いた。
あたたかい。
だが、重い。それは守る重さだ。
「クロエ」
「あなたが戻ることは、陛下にとって支えになる」
「だから、必ず帰りなさい」
「無事に」
クロエは喉が詰まって、短くしか言えなかった。
「…はい」
その瞬間、クロエの中の社畜脳が、別のことを思う。
(姉、待ってるって言った)
(それ、反則だろ)
ツインリンクを開く。
余裕はない。でも、これだけは送る。
『帰る』
『大丈夫』
『待ってて』
送信。
夫人が、その小さな動作を横目で見て、少しだけ口元を緩めた。
武門の女は、そういう家族の強さも知っている。
「準備を」
ロルフが敬礼する。
「御意。護衛隊を編成します」
クロエは、ようやく自分が震えていることに気づいた。
怖い。
でも、怖いからこそ動ける。
(よし、帰るぞ)
(俺の太陽が、待ってる)
暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。
それは、レーヴェン家が“出す”合図みたいに聞こえた。
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