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第42話 港都騒乱⑧

王国府、中央区画。

封鎖された廊下の奥で、ルドルフは窓辺に立っていた。


夕刻の光が差し込む。

赤い、血の色に似ているから嫌いだ。


外の気配が変わった。

騒ぎではない。

騒がないのに、空気が硬くなる。


報告役の騎士が駆け込む。息が浅い。


「殿下…レーヴェン侯が、港都に到着しました」

「王宮前にすでに」


その言葉を聞いた瞬間、ルドルフの背中の汗が冷えた。

笑みが、口元から剥がれ落ちる。


(予想より速い)

(…いや、速いのは当然だ)

(あの男は速い)


レーヴェン侯。

元騎士団長。


そして、“局地戦”において最も恐れられている男。


ルドルフは視線を落とし、指先を震えないように組んだ。


(勝てない)


新式銃を用意した。少数精鋭を集めた。

王国府だけを押さえた。民の区画は傷つけない。港も焼かない。

完璧な政治の暴力だった。


だが、戦場の暴力には勝てない。


レーヴェン侯は、戦場のルールで勝つ。

そして、港都で戦場のルールを使わせないように勝つ。


(あれに、銃は通じない)

(通じても、当てられない)

(当てても、止まらない)


銃弾を見切る。

そして、切る。

そんな噂が冗談で済まない男。


あれに勝てる者がいるのか?


帝国の精鋭?

連邦の魔法兵?

幕府の銃隊?


どれもここで戦わせれば、港都が燃える。

港都が燃えれば、外が入ってくる。

外が入れば、俺の物語は終わる。


ルドルフは、喉の奥で笑いそうになった。


(詰んでいる)


いや、詰んでいるのは今の形だ。

王国府占拠という形。

血を流さずに、女王を縛る形。


それはレーヴェン侯が来た瞬間に崩れる。


(引くしかない)


引けばいい。

撤退すればいい。

宰相を返し、占拠を解き、謝罪して。


できるか?


頭の中で、もう一人の自分が嗤う。


(できるはずがないだろう)

(ここまでやって、引いたら何が残る?)


諸侯に見せた。兵に見せた。王国府の官僚に見せた。

動いたという事実は、もう消えない。


引けば、弱者になる。

弱者は諸侯に食われる。諸侯は俺を捨てる。

帝国も連邦も、見捨てる。


そして、アリシアは俺を許さない。


あの太陽は、赦しを知らない目をしていた。


ルドルフの胸に、冷たい恐怖が広がる。

恐怖は、いつだって最後に嫉妬へ変わる。


(…月だ)

(あれを呼んだのは月だ)


月が動いた。月がレーヴェンを動かした。

太陽を守るために。


(なら、太陽を奪うには)

(もう、静かなやり方では足りない)


ルドルフは窓から目を離し、背後の男へ命じた。


「伝令を出せ」

「港都にいる諸侯の手勢を集めろ」

「王国府は捨てる準備に入れ」


「…殿下、撤退を?」


ルドルフは一瞬だけ唇を歪める。


「撤退ではない、再編だ」


声を低くする。言葉の響きを変える。

政から戦へ。


「私は、王国を正す」

「王家を取り戻す、王国府の横暴を止める」

「女王を解放する」


自分で、自分の物語をなぞる。

なぞらないと、足が止まる。


(そうだ、私は正しい)

(私は、奪われたものを取り戻すだけだ)


だが、胸の奥で別の声が囁いた。


(違う)

(お前は、戻れないだけだ)


ルドルフは息を吐いた。

夕陽の色が、窓枠を赤く染める。


(もう戻れない)

(ここまで来てしまった)


引けば終わる。

押せば燃える。

だが燃えても、燃えた先にしか道がない。


なら、燃やさずに燃やす。

港都を焼かずに、国を割る。


ルドルフは静かに笑った。

笑いは柔らかくない。

ひび割れた硝子みたいな笑いだった。


「…軍を起こすしかない」


その言葉を口に出した瞬間、ルドルフの中で最後の橋が落ちた。

もう戻れない。戻る気もない。


彼は窓の外を見た。


遠く、王宮の方角。

そこに太陽がいる。

そして、見えない場所に月がいる。


「待っていろ、アリシア」


囁きは風に消えた。

だが、港都の夜は確実に近づいていた。





夕闇が落ちる寸前、王国府の周囲だけが妙に静かだった。


騒ぎがない、叫びもない、火も上がらない。

だからこそ、嫌な予感がする。


王国府の正面門。

厚い扉が、内側からきしむように開いた。


最初に出てきたのは、夜勤の官吏たちだった。

縛られていた縄がほどかれ、肩で息をしている。

目は虚ろで、しかし「生きている」ことだけは確かだ。


その後ろから、宰相が姿を見せた。

衣は乱れ、額に汗。

だが背筋は折れていない。


彼が門前に足を置いた瞬間、背後の近衛が息を飲む。

これで、王国府は戻った。


そして、宰相が低く吐き出すように言った。


「…殿下は撤退した」

「ルドルフは、王国府を捨てた」


捨てた。撤退。

それは敗走ではない。

次の形に移るための整理だ。


(引いたか)

(引けたのか、あいつが)


誰もがそう思いかけた、その時。


石畳の向こうから、蹄の音が響いた。

一つではない、複数。

だが規則正しい、無駄がない。


近衛が道を開ける。


現れたのは、レーヴェン侯。

馬上の姿は、遠目にも分かる圧があった。

鎧は簡素。

だがその簡素さが、逆に怖い。


侯は王国府の前で下馬し、周囲を一瞥する。

目が、建物全体を舐めるように走った。

敵の残り香を探す目。

そして同時に、罠を見抜く目。


「…引いたな」


言葉は短い。

だが、それだけでまだ終わっていないと全員が理解する。


宰相が一歩前へ出た。


「レーヴェン侯、感謝する」

「女王陛下は王宮にて待機、港都を燃やすなとのご意向だ」


レーヴェン侯は頷くだけで答えた。

礼は後だ、まず確認。


侯は王国府の門を見上げる。


「中は?」


「印章室は無事」

「ただし、書庫が荒らされている」

宰相が悔しそうに言う。

「人名簿、税の台帳、港の通行証の記録…必要なものだけ抜かれた」


レーヴェン侯の目が細くなる。


「軍を起こす準備だ」


宰相の喉が鳴る。

理解が追いついた者ほど、顔色が変わる。


侯は視線を横に流し、門前の官吏たちを見た。

生きている、生かされた。

つまり彼らも札だ。


「閣下、拘束された者たちは、すぐに隔離を」

「治療と尋問は分ける」

「同情を混ぜたら、口が緩む」


宰相が即座に頷く。


「すでに手配済みだ」

「だが…殿下の撤退が早すぎる」

「追うべきか?」


その瞬間、レーヴェン侯の声が鋭くなる。


「追うな、追わせるな」

「追えば港都で戦になる」

「戦になれば、外が嗅ぐ」

「外が嗅いだら、王国は終わる」


一瞬で、全員の熱が引く。

正論すぎて反論できない。


侯は王国府の敷地に足を踏み入れた。

石畳を踏む音が、やけに大きい。


彼は階段の途中で立ち止まり、背後の私兵の長へ短く命じる。


「抜け道の封鎖、確認」

「裏門、地下搬入口、書庫の隠し扉」

「全部だ」


「御意」


私兵が散る。

影のように、音もなく。


宰相が、少しだけ声を落とした。


「…勝った、のか?」


レーヴェン侯は階段を上がりながら、振り返らずに答えた。


「勝っていない」

「死ななかっただけだ」


そして、ほんのわずかに間を置いて付け足す。


「だがそれで十分だ」

「陛下がいる、港都が燃えていない」

「なら、次はこっちの番だ」


侯は王国府の扉の前で止まり、手を伸ばす。

古い木の扉が、ぎしりと鳴った。


中は、薄暗い。

紙の匂い、汗の匂い。

そして、まだ消えていない火薬の匂い。


レーヴェン侯の目が冷える。


「…ルドルフ」


名前を呼んだのは、怒りではない。

確認だ。

敵として認識した、という宣言だった。


その頃、王宮ではアリシアが待っている。

クロエは遠く、侯爵邸にいる。

港都は表面上、平穏を保っている。


けれど。


王国府の中に残った抜かれた台帳の空白が、

これから始まる内乱の形を、すでに描いていた。

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