第41話 港都騒乱⑦
ヴィルヘルム・レーヴェン侯は馬を走らせていた。
蹄が石を打つ音が、朝の空気を裂く。
港都へ向かう街道は、まだ眠っている。
眠っているからこそ、速度が出る。
少数精鋭の隊列は無駄を削ぎ、音も削いで、ただ前へ進む。
侯は、手綱を握る指に力を込めた。
鎧の隙間から、身体強化の魔力がじわりと巡る。
呼吸は乱れない。
乱れるのは記憶の方だ。
(今さら思い出すな)
(だが、思い出してしまった)
カタリーナが、まだ侯爵令嬢だった頃。
王宮の舞踏会の片隅。
まだ若く、まだ何者でもない者が多かった時代。
ルドルフが来た。
穏やかな笑み。柔らかな言葉。
人を安心させる所作。
だが、その目だけは違った。
獲物を見る目。
手に入れると決めたものを、値踏みする目。
ルドルフは、言った。
『カタリーナ殿。あなたを婚約者に迎えたい』
王家の弟としてではない。
男としての申し出に見せかけて、王位を道具にした申し出だった。
あの時、ヴィルヘルムは感じた。
胸の奥に冷たいものが落ちた。
(この男は、欲しいものを欲しいと言うだけだ)
(理由はない)
(国のためでも、家のためでもない)
そして、返事は来る前から決まっていた。
カタリーナは、アルベルトの婚約者となった。
王太子の婚約者に。
その知らせが王宮を巡った日の、ルドルフの目を
ヴィルヘルムは忘れなかった。
笑っていた。祝福の言葉も口にした。
兄に、最も美しい賛辞まで贈った。
だが、目だけが死んでいた。
いや、死んでいたのではない。
燃えていた。
怒りと、嫉妬と、「奪われた」という歪んだ確信が、静かに燃えていた。
(あの男は…兄を憎んだのではない)
(手に入らないという事実を憎んだのだ)
馬の息が白く煙る。
侯の胸の内で、何かが組み上がっていく。
ルドルフは、王になりたいわけではない。
統治がしたいわけでもない。
王であることが欲しいのではない。
欲しいのは、カタリーナ。
そして、手に入らないなら、その代わり。
ヴィルヘルムの背筋が冷えた。
(まさか)
そこに、いまのアリシアが重なる。
黄金の髪、強い意志、聡明な瞳。
そして、どこかカタリーナの影を宿す立ち姿。
港都の王国府を押さえ、王宮へ会談を迫り、摂政を申し出る。
理由は秩序だの王国だの、言葉はいくらでも飾れる。
だが、飾りを剥がした芯は何だ。
(ルドルフ殿下…あなたは)
(まだ、あの時のままなのか)
侯は手綱を引いた。
馬が僅かに速度を落とし、隊列が乱れないよう調整する。
後ろの兵たちの気配が、ぴたりと揃う。
ヴィルヘルムは、目を細めた。
(欲しかったのか、カタリーナが…それほど)
(そして…)
答えが喉元まで上がってくる。
(アリシアを、カタリーナの代わりにしているのか)
その瞬間。
頭の中で、これまでの違和感が一つの線で繋がった。
王国府の占拠は目的ではない。
摂政も目的ではない。
目的は、その先。
女王の隣。
女王の身体と心を縛る席。
ヴィルヘルムの目が鋭くなる。
馬上で、呼吸が一段深くなる。
「…気づいた」
彼は呟く。
誰に聞かせるでもない、戦場の独り言。
(カタリーナを奪えなかった、だから娘を奪う)
(兄から奪えなかった、だから遺したものを奪う)
怒りが込み上げる。
だが怒りは刃を鈍らせる。
侯はそれを押し殺し、冷たい決意に変える。
(この戦は、ただの拠点奪還ではない)
王家を取り戻す戦でもない。
王国府を取り戻す戦でもない。
娘を守る戦だ。
カタリーナが命を賭けて遺した二人を。
太陽と月を。
侯は前を見た、港都の方角。
そこに、今もアリシアが立っている。
(待て、アリシア)
(俺が行く)
馬の腹を軽く蹴る、速度が上がる。
隊列がさらに締まる。
背後の兵たちは何も聞かない。
聞く必要がない。
彼らは侯の背中を見て、理解する。
今日の奪還は、急がねばならない。
港都の空が、少しだけ近づいた。
それは戦場が近づくのではなく、守るべきものへ近づく距離だった。
夕刻。
港都の空は、赤みを帯び始めていた。
日没まで残りはわずか。
王宮前の白い天幕が、夕風にはためく。
そこに立つアリシアの影は長く伸び、石畳に落ちている。
(時間が尽きる)
約束の刻限。
ルドルフが宰相を返すか、返さないか。
返さないなら次の手。
だが次の手は、港都を燃やす危険と背中合わせだ。
アリシアは微動だにしない。
微動だにしないことで、城内の者も動揺を飲み込む。
その時、城門の上にいた見張りの近衛が、声を抑えたまま叫んだ。
「騎影北街道より!旗印、獅子の紋!レーヴェン侯です!」
一瞬、空気が跳ねた。
しかし誰も声を上げない、勝利を確信してからでいい。
石畳の先。
夕陽を背負って、馬が現れた。
速すぎる。
普通の隊列なら、ここまで速度を上げれば崩れる。
だが崩れていない。
隊列が“刃”の形のまま走ってくる。
先頭はヴィルヘルム・レーヴェン侯。
一度、馬を替えている。
いや二度か、汗の具合がそれを示していた。
それでも侯の呼吸は乱れていない。
身体強化、そして長年の鍛錬。
馬と人の限界を押し上げる技。
城門の前で、侯が手綱を引く。
馬が前脚を鳴らし、止まる。
石畳に蹄鉄が擦れ、火花が散る。
護衛の私兵たちも、ぴたりと止まった。
あるのは、海風と、金属の微かな鳴きだけ。
門が開く、近衛が道を作る。
通すのは客ではない、味方の切り札だ。
レーヴェン侯は馬上からアリシアを見た。
遠目でも分かる、少女のような体格なのに、立ち姿は王だ。
侯は馬から降りる。
片膝をつく、土埃のついた膝でも構わない。
ここに必要なのは礼儀ではなく、誓いだ。
「女王陛下」
「遅参、申し訳ありません」
アリシアはすぐには答えない。
周囲に見せるべき順序がある。
まず、彼が来たことを皆に認識させる。
アリシアは一歩前に出て、静かに言った。
「来てくれて、感謝します。レーヴェン侯」
その瞬間、王宮前の空気が一段落ち着いた。
目に見えない支柱が立ったように、皆の呼吸が揃う。
侯が顔を上げる。目が鋭い。
だがその鋭さは、獲物ではなく守るべきものへ向いている。
アリシアが短く頷く。
「ルドルフ殿下は整理に時間が欲しいと、日没までと区切った」
「それが迫っています」
「ならば、“整理”はこちらで終わらせます」
背後の私兵たちが、音もなく散った。
すでに配置に入っている。
港都の中で火を上げず、叫ばず、血を見せずに首を落とす準備。
侯は声を落とす。アリシアだけに届く距離。
「女王陛下、殿下の狙いは王国府ではありません」
「摂政でもない」
「陛下ご自身です」
アリシアの瞳が一瞬だけ揺れる。
だがすぐに、凍るように澄む。
「……私も、少しだけ感じていました」
レーヴェン侯が頷く。
「ならば、なおさら急ぎます。陛下はここでお待ちください」
「港都を燃やすのは、外の望み」
「我々は燃やさずに終わせます」
アリシアは一度、深く息を吸った。
そして、決断を言葉にする。
「レーヴェン侯、お願いします」
たった一言。
しかしそれは、王が剣を預ける言葉だ。
侯は立ち上がり、胸に拳を当てた。
「御意」
次の瞬間、侯は私兵の長へ短く命じる。
「行くぞ」
夕陽が沈みかける。
約束の刻限まで、残り僅か。
王宮前で、アリシアは動かずに待つ。
動かずに待つことが、今の戦い方だから。
遠く、港都の中央区画。
王国府の石壁が、夕焼けに染まる。
その影へ向けて。
レーヴェン侯の“刃”が、音もなく滑り込んでいった。
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