第40話 港都騒乱⑥
ルドルフは王宮前の白い天幕を離れた。
振り返らない。振り返るのは弱さだ。
石畳を進みながら、護衛の靴音だけが規則正しく続く。
朝の空気は冷たい。
冷たいのに、胸の内側だけが熱かった。
(想定外だ)
あれほど。受け入れるしかない状況を作った。
王国府を押さえ、宰相を握り、血は流さず、民を恐慌に落とさず。
女王が手を出せない形にした。
だから“摂政”は通る。通るはずだった。
なのに。
十三の少女は、首を縦に振らなかった。
(なぜだ)
ルドルフは口元に笑みを貼り付けたまま、頭の中だけで噛み砕く。
彼女は強がった?いや、強がりではない。
言葉が軽くなかった。視線が揺れていなかった。
誰かが支えている。
宰相?
宰相は拘束した。動けない。
近衛?
近衛は王宮から出られない。
騎士団?
騎士団が動けば、すぐに港都が荒れる。彼女はそれを嫌がる。
なら、誰だ。
その時、ふと脳裏をよぎった。
(月はどうした?)
彼が密かにそう呼ぶ存在。
王妹クロエ。
この七年、姿を見せない第二王女。
病だ、療養だ、そういう王宮の言い方は聞いている。
だが、王宮が何かを隠す時の言い方だとも、彼は知っている。
アリシアの横に月がいなかった。
今日の会見。
女王の横には宰相代理、近衛隊長。
いつもなら飾りとしてでも、王家の絆を見せるために連れてくる。
幼い妹は、その最良の道具だ。
それを出してこなかった。
(隠している?)
(いや、それだけなら分かる。まだ危険だからだ)
だが、ルドルフの喉の奥に、嫌な引っかかりが残る。
(隠しているのではなく)
(いないのか?)
彼は歩きながら、指先で外套の縁を軽く撫でた。
癖だ。
苛立ちを均す癖。
(いや、違う)
いないなら、もっと簡単だ。
月はただの病弱な子。王宮の奥で寝ているだけ。
だからアリシアは孤立する。それがこちらの筋書きだった。
なのに、アリシアは孤立していない。
誰かが背骨を入れている。
誰かが、女王に「動くな」と言っている。
誰かが、女王に「待て」と言っている。
(待て…?)
待つ、という判断は賭けだ。
時間を敵に回しやすい。
それを選べるのは、時間の味方がいる者。
(援軍)
ルドルフの目が、細くなる。
(レーヴェン)
(…まさか、レーヴェン侯を動かしたのか)
レーヴェン侯は中立派の柱。
武門の象徴。
だが女王が直接頼めば、政治になる。
諸侯が割れる。
女王が私兵を集めたという物語にされる。
だから女王は動けない。
では、誰が動かす?
月だ。
王妹なら、家族の名目で動ける。
女王の政治ではなく、孫の情で動かせる。
(…まさか)
ルドルフの背筋に、冷たいものが走った。
(月が、動いた?)
七歳の王妹が?
表に出てこない、病弱なはずの王妹が?
思い出す。
昔、まだクロエが赤ん坊だった頃。
王宮で起きた事件。
そして、その後の異様に早い収束。
あの時も、筋書きが崩れた。
あの時も、アリシアは異様だった。
だが、異様さはアリシアだけだと決めつけた。
(違う)
(最初から、二人だったのか)
ルドルフの喉が、かすかに鳴る。
護衛が振り返りかけ、彼は笑みを強めて誤魔化した。
予想外だ。
だが、予想外は嫌いじゃない。
予想外は、相手の正体を暴く糸口になる。
(なら、確認する)
月がいるなら、月に触れる。
触れれば、太陽が反応する。
ルドルフは歩みを止めずに、護衛の長へ低く命じた。
「王宮内の動き、特に“王妹”の動きを洗え」
「誰が出入りしている」
「誰が物資を運んでいる」
「…そして、レーヴェン侯爵邸の動向もだ」
護衛長が小さく頷く。
ルドルフは笑みのまま、心の中だけで呟いた。
(まさか)
(“月”が、私の手から太陽を奪う?)
その瞬間、彼の中の嫉妬は、形を変えた。
憎しみではない。
危機感だ。
月は、ただ隠れているだけではない。
影の中で、何かを動かしている。
そう気づいた時、ルドルフの世界は、少しだけ狭くなった。
王宮、女王の執務室。
窓の外の港都は、いつも通りに見えた。
船の帆、朝の煙、人の流れ。
表面だけは。
アリシアは書簡に目を落としたまま、指先だけで羽ペンを止める。
遠い鐘の音が、いつもより一拍遅く聞こえる。
(止まっている)
(国の血が)
その時、廊下の空気が変わった。
近衛の足音が、短くなる。
緊張の足音だ。
扉の外で、誰かが止まる。
「入れ」
返事を待たず、扉が開いた。
まず入ってきたのは近衛隊長。
次に、影。
黒い外套。顔は半分、布に隠れている。
ノクス。
いや、王宮の者は彼をそう呼ばない。
犬。アリシアの飼い犬。
裏の仕事をするための名前のない影。
だが、今の彼はいつもと違った。
息が浅い、髪が湿っている。外套の裾に、石畳の泥。
そして袖口に、薄い血。
近衛隊長が低い声で言う。
「女王陛下、犬が戻りました」
「港都の異変に気づいた、と」
アリシアは立ち上がらない。
立ち上がれば、動揺が見える。
ただ、視線を上げた。
「報告」
ノクスは片膝をつき、短く頭を下げる。
声は掠れているが、言葉は明瞭だった。
「王国府、夜明け前に完全封鎖」
「内部の人員配置が入れ替わっています」
「正規の役人ではない足運び」
「銃の匂いがします」
アリシアの目が、僅かに細くなる。
「新式」
ノクスは言い切る。
「金属音が違う。火薬も違う」
「幕府の線がある」
(やっぱり混ざってる)
(ルドルフだけの仕事じゃない)
ノクスはさらに続けた。
「王国府の裏手、地下搬入口」
「そこに、少数精鋭の出入り」
「騎士団の紋ではない、諸侯の手勢が混ざっている」
近衛隊長の拳が鳴る。
「諸侯め!」
アリシアはそれを一瞥で止めた。
「静かに」
一言で、部屋が凍る。
近衛隊長が口を閉ざす。
アリシアはノクスへ問いを投げる。
「宰相は?」
「生きてます」
「だが、動かされてます。見せ札かと」
アリシアの指先が、机の縁を軽く叩いた。
怒りではない。
計算のリズムだ。
「…お前はどうして戻った」
ノクスは視線を上げずに答える。
「女王陛下の命が最優先」
「港都に潜るより、陛下に知らせる方が早い」
「そして」
一瞬、言い淀む。
「港都に、別の刃が入った」
「私の勘が、戻れと」
アリシアは短く息を吐いた。
(良い判断)
(今、欲しいのは情報)
(英雄ではない)
アリシアは近衛隊長へ言う。
「騎士団に動くなと再通達」
「門は閉めたまま、封鎖にはしない」
「港都に恐慌を広げるな」
「御意」
次に、ノクスへ。
「お前はここで休め」
ノクスの肩が僅かに揺れる。
拒否の気配。
アリシアは先に釘を刺した。
「休め。命令」
「そして、次は一人で動くな」
「お祖父様が動く」
「お前は“犬”だ。吠えるな。噛むな。噛む時は、私が合図を出す」
ノクスは、深く頭を下げた。
「御意」
アリシアは椅子に座り直し、ツインリンクを一瞬だけ開く。
クロエからの「祖父動く」の既読は、もうついている。
なら、今するべきことは。
港都を燃やさない。
ルドルフに動けないと思わせない。
そして、レーヴェン侯が来た瞬間に拾う。
アリシアは、静かに言った。
「犬が戻った」
「良い」
「港都の影が、こちらに伸びている証拠よ」
近衛隊長が唾を飲む。
アリシアの目は窓の外を見ていた。
港都はまだ静かだ。
静かすぎるのが、逆に不吉だった。
「今日の日没まで」
「ルドルフが約束を守らないなら」
アリシアは、微笑まないまま言った。
「私が、次の手を打つ」
ノクスが戻った。
つまり、港都はもう“戦場”の顔をしている。
あとは、誰が先に動くか。
それだけだった。
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