第39話 港都騒乱⑤
侯爵邸の中庭。
朝の空気は冷たく、なのに金属の音だけが熱を持って走っていた。
鎧が締まる。
剣が鞘に滑り込む。
革紐が引き絞られる。
静かな戦支度は、いつだって怖い。
クロエはテラスの影から、こっそりそれを見ていた。
見ないと落ち着かない。
現場を見ないと判断できない。
社畜脳が、異世界でも働く。
(これマジで戦じゃん)
(王国府、ほんとに奪り返す気だ)
中庭の中央に、ヴィルヘルム・レーヴェンが立っていた。
背は高くない。
だが、立っているだけで兵が黙る。
武門の家の重さが、その一人に集約されている。
クロエが息を飲んだ、その時。
「見てしまうのね」
背後から、柔らかな声。
振り返ると、祖母がそこにいた。
足音がない。
いつ来たのか分からないのが、逆に怖い。
「お、おばあ様!」
祖母は笑った。
笑いながら、クロエの髪をそっと撫でる。
「怖い?」
「でも、目が離せないでしょう」
クロエは誤魔化すように、視線を中庭へ戻した。
「すごいですね」
「お祖父様…あんな、普通に立ってるだけで」
祖母は、クロエの横に並び、同じ方向を見た。
その瞳は、誇らしさと、諦めと、少しの寂しさが混ざっている。
「強いわよ。あの人は」
クロエが「どれくらい?」と聞く前に、祖母は続けた。
「あの人が剣を握るとね、空気が変わるの」
「怖いのではなく、静かになるのよ」
「皆が、余計なことを考えなくなる」
「生き残るためのことだけを考えるようになるの」
その言い方が、戦場の言葉だった。
中庭の侯が、手袋を外し、指を鳴らした。
小さな音。
それなのに、兵の背筋が一斉に伸びる。
次の瞬間、クロエの目の前で現実が揺れた
ぼうっと、陽炎みたいに。
侯の輪郭が厚くなる。
鎧が一枚増えたような。
いや、鎧そのものが生きた”みたいな。
(身体強化)
リディアが使うのとは比べ物にならない。
質も量も違う、分厚い。
「身体強化」
「リディアちゃんの数倍は出せるわね」
「魔力も、高い」
「昔はね、銃弾を見切って」
クロエが思わず振り返る。
「え、銃弾?」
祖母は悪びれず頷いた。
「切ったわ」
「その話は、本人は嫌がるけど」
クロエの背筋がぞわっとした。
(いや無理だろ)
(銃弾って切れるんだっけ?)
(切れる世界だったわここ)
祖母は、少しだけ声を落とす。
「でもね、強いだけじゃない」
「あの人は負け方を知っている」
「だから、勝ち方が分かるの」
クロエがもう一度中庭を見ると、侯は兵を見回していた。
私兵と呼ぶには、目が鋭すぎる。
家の兵というより、“侯が鍛えた刃”だ。
祖母が、クロエの肩を軽く抱き寄せる。
「怖がらなくていいわ」
「あの人が鍛えたのが、この家の兵なの」
「一騎当千が集う、ってそういう意味」
クロエはごくりと唾を飲んだ。
(味方でよかった)
(これ敵だったら詰んでる)
(いや、敵でも味方でも怖いわ)
侯が短く言う。
「集まれ」
それだけで主要メンバーが集結する。
十数名。少ない。
でも少ないほど強いのが、こういう部隊だ。
「少数精鋭で、拠点奪還」
「火は使うな」
「叫ぶな」
「血を見せるな」
命令が短い。
短いほど、現場は迷わない。
祖母の言った通りだ。
「主目的は奪還ではない」
「握っている手を折る」
「折ったら、握っていたものは落ちる」
「落ちた瞬間に拾うのが、王宮だ」
クロエは、その言葉で初めて実感した。
お祖父様は、剣の化け物なだけじゃない。
戦いを国の形で考えている。
祖母が、クロエの耳元で囁く。
「だから、アリシアが頼ったのよ」
「陛下は動けない、動けば負ける」
「でも、待っているだけでは国が死ぬ」
クロエは小さく頷いた。
祖母は最後に、少しだけ笑った。
「クロエ」
「孫が心配してるって知ったら、あの人、きっと余計に速くなるわ」
それは優しい冗談の形をしていたけれど、
クロエには、祈りに聞こえた。
中庭では、もう軍議のための部屋へ兵が移動し始めていた。
戦支度の音は相変わらず静かで、だからこそ速い。
クロエは胸の奥で拳を握る。
(頼むぞ、お祖父様)
(姉が耐えてる間に、終わらせてくれ)
祖母はクロエの頭をもう一度撫で、言った。
「大丈夫」
「あの人は、強いわよ」
その言葉が、朝の冷たさの中で、唯一の温かさだった。
レーヴェン侯爵邸の門前。
朝の光は澄んでいて、逆に冷たかった。
馬の鼻息。
革の鳴る音。
金属が擦れる低い音。
出陣の音は派手じゃない。けれど重い。
門の内側に、侯爵家の者たちが自然と集まっていた。
執事、侍女、厩番、料理人、庭師。
誰も命令されていないのに、みんな同じ場所へ来ている。
この家では、出る背中を見送るのが当たり前なのだ。
祖母は外套を羽織り、まっすぐ門前に立っていた。
華美な装いはない。
武門の妻の装いだ。
の隣に、クロエ。
七歳の背丈、だが背伸びはしない。
背伸びをしたら、子供に戻ってしまいそうで。
(子供なんだけどな)
(でも、今は違う)
門前に、レーヴェン侯が現れた。
鎧は簡素。
派手な飾りも紋章も最小限。
目立たないため、そして速く動くため。
侯の背後には十数名。
侯爵家私兵の主要メンバー。
一騎当千の刃。
彼らは声を出さない。出す必要がない。
侯は門の前で足を止め、まず祖母へ視線を向けた。
「留守を頼む」
祖母は頷いただけだった。
泣かない。引き止めない。
その代わり、短く言う。
「帰ってきなさい」
「あなたの席は、ここにある」
侯は一瞬だけ目を細めて、笑ったように見えた。
そして視線がクロエへ落ちる。
クロエは一歩前に出た。
小さな歩幅。
だが、逃げない歩幅。
「おじい様」
侯はしゃがまない。
しゃがめば孫になる。
今必要なのは、孫ではなく、旗の言葉だ。
それでも侯の声は、少しだけ柔らかい。
「クロエ。よくやった」
「お前が言わなければ、動けなかった」
クロエの喉がきゅっと鳴る。
(違う)
(俺が偉いわけじゃない)
(姉が決めて、俺が運んだだけだ)
それでも、言葉にできるのは一つだった。
「お願いします」
「女王陛下を、姉上を助けて」
侯は頷く。短く、重く。
「任せろ。血は流させん」
「そして、太陽は沈ませない」
祖母が、クロエの肩に手を置く。
温かい。その温かさが、逆に泣きそうにさせる。
侯は馬の鞍に手をかけ、軽々と乗った。
鎧を着ているのに、動きが静かだ。
無駄がない。
それが本物の強さだと、クロエにも分かった。
執事が一歩前に出る。
声は抑えているのに、よく通る。
「御屋形様、御武運を」
使用人たちが、一斉に頭を下げる。
祈りは声にしない。
ここではそれが礼儀だ。
クロエも、遅れて頭を下げた。
一瞬、額が冷たい空気に触れる。
祈りが、形になる。
顔を上げると、侯が門の外に目を向けていた。
もう振り返らない。
振り返ったら、迷いが生まれるから。
「出るぞ」
たったそれだけで、私兵たちが動く。
馬が歩き出す。
蹄の音が石畳に刻まれる。
遠ざかっていく背中。
クロエは気づいた。
見送りは、行けと言う儀式だ。
帰れと言う儀式でもある。
祖母が、ぽつりと呟く。
「あの人は強い」
「でもね、強い人ほど帰る場所が必要なのよ」
クロエは息を吸って、声を出した。
子供の声。
でも、今はそれでいい。
「おじいさまーーっ!」
侯は振り返らない。
振り返らないまま、右手を軽く上げた。
それだけで十分だった。
門前に残った者たちの間に、静かな決意が落ちる。
(ここから先は、姉が耐える時間)
(お祖父様が取り戻す時間)
クロエは視界の端のツインリンクを見た。
けれど、送る言葉は決まっていた。
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