第36話 王妹殿下は知る
レーヴェン侯爵家の客間は、王宮のそれとは違った。
豪奢ではある。だが、見せびらかすための豪奢じゃない。
剣の家の豪奢、手入れされた木と革と鉄の匂いがする。
クロエは、背筋を伸ばして椅子に座っていた。
七歳の体には大きすぎる椅子。足が少し浮いている。
それでも、姿勢だけは崩さない。崩せない。
「中立派が集まるまで、ここに滞在する…か」
(俺、たしか社畜だったよな)
(なんで異世界で、孫として外交してんだよ)
そんな心の突っ込みを、顔には出さない。
顔に出すと、リディアが眉をひそめる。礼法地獄がまた始まる。
大広間。
壁にかかった獣の角。
槍と盾。
武門の家の重み。
祖父ヴィルヘルム・レーヴェン侯は、椅子に深く座っている。
太い指。傷だらけの手。
年齢は五十五。だが、目は若い。
戦場の目だ。
祖母は隣で静かに紅茶を注ぎ、場を柔らかくしている。
しかし、その柔らかさは戦を知る柔らかさだった。
そして中立派の諸侯が、一人、また一人と集まる。
いずれも「反王国府」でも「ルドルフ派」でもない。
だが、どちらにも転びうる顔だ。
女王陛下はお若い。
「王妹殿下は、突然出てこられた」
「王国府が強すぎるのではないか」
やんわりと。
だが、痛烈に。
クロエは腹の底で呻いた。
(やめろやめろ!七歳に突っ込むな!)
(中身は三十代だけど!)
けれど、クロエは相手のカードを見る。
この人は恐怖から言っている。
この人は利から言っている。
この人は誰かに言わされている。
社畜脳が働く。
相手の上司と根回しの線を想像する。
その間、レーヴェン侯はほとんど喋らない。
喋るのは、必要な時だけ。
「結論だけ言え」
「誰が得する」
「誰が泣く」
それだけで場が締まる。
この男は、政治の言葉を嫌う。
だからこそ、政治家が逆に恐れる。
クロエは一度だけ、はっきり口にした。
「アルトフェンは、外に挟まれています」
「内が割れたら、外が来ます」
七歳の声は小さい。
でも、言葉が硬い。
現実味がある。
それが、中立派に刺さった。
レーヴェン侯が、ゆっくり頷いた。
「孫は、よく分かっている」
その一言で、諸侯の視線が変わる。
“可愛い孫”ではなく、レーヴェン侯が認めた駒を見る目になる。
会議は長く続いた。
結局、今は「様子見」の合意だけが固まる。
だがそれは、今この瞬間に必要なことだった。
中立派を、王弟派に流さない。
それだけで十分な勝ちだ。
夜。
大広間の燭台の数が減り、話し声が遠ざかる。
諸侯が帰り、護衛が交代し、扉が閉まる。
残るのは、家の匂いだけ。
祖母が、ふっと笑った。
「お疲れさま、クロエ」
その声が、政治の声じゃない。
孫にかける声だと分かった瞬間。
クロエの肩が、ほんの少しだけ落ちた。
祖父も椅子の背にもたれ、ため息をつく。
「王宮の飯は薄いだろう」
「ここは肉がある」
そして、祖父はわざとらしくぶっきらぼうに言う。
「食え。小さいのに痩せている」
「戦になったら倒れるぞ」
祖母が苦笑して、クロエの前に湯気の立つ皿を置く。
肉が多めのシチュー。白パン。野菜たっぷりのスープ。
しかし、米はない。
クロエは、思わず泣きそうになって、慌ててスプーンを取る。
祖母が髪を撫でる。
その手つきに、母カタリーナの影がある。
「クロエ、怖かったでしょう」
「王宮で、ずっと隠れていたって聞いたわ」
クロエは、言葉に詰まる。
怖かった。
何度も死にかけた。
でも、それを言うのは王妹として弱い気がして。
すると祖父が、低く笑った。
「弱くていい」
「家では、孫は孫だ」
その一言が、胸に落ちる。
クロエは、ぽつりと言った。
「…おじい様」
「私、ちゃんとできてた?」
七歳の声。
でも中身は、ずっと誰かに評価される仕事をしてきた社畜。
祖父は短く答える。
「できてた」
「そしてお前は、賢すぎる」
褒め言葉なのに、なぜか怖い。
祖母が、柔らかく言う。
「賢い子ほど、抱え込むの」
「今日はもう、抱えなくていいわ」
その瞬間、空気が完全に変わった。
政治の夜から、家族の夜へ。
クロエはその夜、久しぶりに役を脱いだ。
眠る前、布団の中でふと思う。
(中立派が揃うまで、ここにいる)
だが今だけは。
祖父母の屋敷の夜が、静かで、温かかった。
翌朝。
レーヴェン侯爵家の客間は、朝日が差し込んでいた。
王宮の朝は、鐘と足音と緊張で始まる。
でもここは違う。鳥の声がする。薪の匂いがする。
一瞬だけ、普通の家の朝みたいで。
クロエは布団の中で、もぞもぞと指を動かした。
七歳のふにふにボディでも、だいぶ言うことを聞く。
(よし…今日は中立派の追加が来る日だっけ)
視界の端に、小さな通知。
【ツインリンク:未読 7】
「は?」
寝ぼけた声が出た。
未読、七。
姉は無駄に連打しない。
連打するのは…マジの時だ。
クロエの背中に冷たいものが走る。
「リディア、ちょ、リディア!起きてる!?」
カーテンの向こうで布の擦れる音。
すぐに控えていたリディアが振り返る。
「はい、姫様。お目覚めですか」
「それどころじゃない!え、えっと…いや、なんでもない!」
危ない。
ツインリンクは秘密。
声に出したらダメだ。
クロエは笑顔を作ろうとして、失敗する。
リディアが眉をひそめる。
「…顔色が…」
「平気!えっと、夢!夢が怖かっただけ!」
苦しい。
だが今はどうでもいい。
クロエは視界の端に意識を向け、震える指で未読を開く。
「緊急」
「王国府」
「占拠」
「祖父」
「動いて」
「港都」
「血を流すな」
声が消えた。
喉がひゅっと鳴るだけで、音にならない。
(王国府…占拠?)
(え、待て待て待て)
(あそこって国の心臓じゃん)
(止まったら国が死ぬやつじゃん!!)
脳内社畜が秒で復旧する。
(対応手順)
(まず上司に報告)
(次に現場の責任者呼ぶ)
(関係部署巻き込む)
(ただし外に漏らすな)
外に漏らすな?
外に漏らしたら帝国と連邦が来る。
それはこの国では死だ。
クロエの口が勝手に動く。
「や、やべええええええええええ…!」
声が出た。
出してから気づく。
リディアがびくっとして、駆け寄ってくる。
「姫様!?どうされました、お体が——」
「ちがっ…!いや、ちょっと!えっと!お腹!お腹が痛い!」
また苦しい。
しかし今はリディアを誤魔化すしかない。
クロエは心の中で叫ぶ。
(姉!!!)
(俺、七歳! しかも王妹! しかも今まで隠れてた枠!)
クロエは布団から飛び起きようとして、脚がもつれて転げそうになる。
リディアが慌てて支える。
「姫様、落ち着いてください!」
落ち着けるか。
クロエはリディアの肩を掴んだまま、笑顔に見せかけた顔で言う。
「り、リディア…」
「今すぐ、レーヴェン侯に会いたい」
リディアが目を見開く。
「この早朝に…?」
「うん。急ぎの…家族の用事。めっちゃ急ぎ」
家族の用事。
嘘じゃない。最強の言い訳だ。
リディアが一瞬だけ迷って、すぐに頷いた。
「承知しました。すぐに取り次ぎます」
リディアが部屋を出る。
扉が閉まった瞬間、クロエは膝に手をつき、息を吐いた。
(やるしかない)
(祖父が歴戦の勇者なら、こういう拠点奪還の経験もある)
(…頼む、マジで頼む)
クロエはツインリンクに戻り、震える指で返信スタンプを探す。
クロエは、最短の言葉を打ち込む。
「了解」
「祖父」
「動かす」
「待って」
送信。
送った瞬間、クロエは思った。
(俺が仕事で動くの、異世界でも変わらんのかよ)
朝日が眩しい。
眩しいのに、体の中だけ氷みたいに冷えたままだった。
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