第35話 港都騒乱②
夜明け前。
王宮の回廊に、靴音が走った。
走る者は、普段なら叱責される。
だが今は誰も止めない。
止める余裕がない音だった。
執務室の扉が三度、硬く叩かれる。
「女王陛下!至急!」
アリシアは返事より先に立ち上がった。
机の上の書類が、風もないのに一枚めくれる。
「入れ」
扉が開く。
入ってきたのは近衛隊長。顔色が青い。
その後ろに、宰相府の書記官が一人、肩で息をしている。
深夜勤務のはずの男だ。ここにいる時点で、何かが起きている。
近衛隊長が、簡潔に報告する。
「港都中央区画、【王国府】占拠されました」
一瞬だけ、世界が無音になる。
アリシアの指が机の縁を掴む。
爪が白くなるのを、自分で見てしまった。
「…状況」
近衛隊長は、短く頷く。
「夜明け前、警鐘が鳴る前に侵入」
「鐘楼が落とされ、巡察が分断された模様」
「宰相府、印章室、関税・通行の部署、要所が同時に押さえられています」
書記官が、震える声で付け足す。
「宰相閣下…」
「それに、夜勤の上級官僚、印章係、通行証の責任者等」
「多数が拘束されました」
拘束。
それが、余計に恐ろしい。
殺されたなら、怒りで動ける。
だが拘束は人質だ。
この国の“血”を握られた証拠だ。
アリシアは即座に理解した。
(港も商業区も無事)
(つまり狙いは港都そのものではない)
(王国府だけ、この国の中枢だけを切る)
そして、次の一手も。
(騎士団は動かせない、動けば民が死ぬ)
(商業区が燃えれば税が死ぬ)
(港が止まれば国が死ぬ)
それを相手は分かっている。
アリシアは、息を吐くことを忘れていた。
喉が乾く。だが声は冷える。
「首謀者は?」
近衛隊長が一瞬だけ目を伏せる。
「…旗は上がっていません」
「ですが、内部の証言から、王弟殿下の名が囁かれています」
アリシアの瞳が、細くなる。
(ルドルフ)
(まさか、ここまで短絡的に?)
(いや…短絡じゃない)
(正統を語りながら、最も痛い場所だけを押さえた)
書記官が紙を差し出す。
手が震えているせいで、紙の端がカサカサと鳴る。
「これを…持たされました」
「女王陛下へと」
アリシアは紙を受け取った。
封は丁寧にされている、血も汚れもない。
むしろ、礼儀正しい。
それが、ぞっとする。
封を切る、短い文面。
王国府は確保した。
港と商業区には手を出さない。
宰相以下、拘束者は無事。
王宮は動くな。騎士団も動くな。
話し合いの場を設けよ。
目的は王家を王国府から解放すること。
そして最後に、ひとこと。
「血を流さぬために、あなた方が必要だ」
アリシアは紙を机に置いた。
指先が、紙を押さえつける。
まるでそれが逃げるもののように。
近衛隊長が、喉を鳴らす。
「女王陛下、騎士団を」
「駄目だ」
即答だった。
拒絶というより、計算。
「港都で戦えば、王国が死ぬ」
「相手はそれを分かっている」
アリシアは窓の外を見る。
夜が薄くなり、港都の輪郭が浮かぶ。
その心臓が、いま誰かの手の中にある。
(ノクスを外に出した)
(港都の影が、空いた)
自分の判断が、致命的だった。
悔しさが喉に上がる。
だが、飲み込む。
ここで折れたら、国が沈む。
アリシアは顔を上げた。
「近衛は、王宮の防衛を最優先」
「城門を閉じる。ただし封鎖にはするな」
「港都に恐慌を広げない」
「騎士団には…」
少しだけ間が空く、ここが一番難しい。
「出動準備。だが動くな」
「動ける形を見せる。それだけでいい」
近衛隊長が頷く。
「…宰相閣下が拘束されおります…王国府の命令系統が…」
「私が代行する」
言い切る。
十三歳の女王の声が、部屋の空気を縫う。
「王国府が止まったなら」
「王宮が動く」
書記官が、涙をこらえながら頭を下げた。
「…御意」
「王国府を取り戻す」
「血を流さずに」
「そして二度と、握らせない」
夜明けが来る。
港都の空が青くなる前に、アリシアは決めなければならない。
話し合いか。
切り返しか。
どちらにせよ。
これが、騒乱の始まりだった。
アリシアは、机の上の地図を見ていた。
港都、中央区画。王国府。
「時間は、敵でもあり味方でもある」
呟いた声は、部屋の静けさに吸い込まれた。
王国府が止まった今、アルトフェンは血が止まっている。
通行証。関税。徴税。命令書。兵站。
紙が止まれば、人も物も止まる。
そして止まった血は、腐る。
遅かれ早かれ、帝国も連邦も幕府も嗅ぎつける。
港の遅れ。荷の滞り。商人の焦り。
外交官より先に、商人が気づく。
介入されれば、終わる。
終わるというのは、戦に負けることではない。
小国の裁量が消えることだ。
(介入前に終わらせる)
その結論は揺るがない。
だが、その道が最悪に狭い。
武力での鎮圧はできない。
騎士団を大きく動かせば、民の不安が爆発する。
港都は交易の都だ。恐慌は外へ漏れる。
帝国も、連邦も、“治安維持”という名の軍を出せる。
近衛は動かせない。
王宮を空にするのは自殺行為だ。
では少数精鋭で奪還する?
その案が頭をよぎり、すぐに消えた。
(私が出れば?)
(…違う)
(私は女王だ。倒れれば正統が崩れる)
(クロエを狙わせる口実になる)
アリシアは指先で、王国府の位置をなぞった。
ここを押さえただけで国が止まる。
ルドルフはよく分かっている。
だから殺していない。
(相手は、民を殺さない)
(港を燃やさない)
(商業区にも触れない)
つまり、下手に動けばこちらが悪者になる。
「…上手い」
憎悪ではなく、純粋な評価が口から漏れた。
評価した瞬間、アリシアは自分を戒める。
(感情はいらない、必要なのは手順)
目を閉じる。
頭の中で“使える手”だけを並べる。
王宮は動かせない
騎士団は威嚇に留める
港都で戦闘は起こせない
王国府奪還は必須
介入前に終わらせる
残る手は…一つ。
「クロエ」
妹の名を呼んだだけで、胸の奥がきしむ。
あの子を危険に近づけたくない。
だが、国は待ってくれない。
クロエは今、レーヴェン侯爵家。
祖父ヴィルヘルム・レーヴェン。
歴戦の武人。元騎士団長。
局地戦も拠点奪還も、彼は“現場で知っている”。
(拠点奪還)
(血を流さない奪還)
(民を不安にしない奪還)
可能性があるのは、その男だけ。
そして、その男を動かせるのは
(私ではない)
(女王が動けば、今度は「王国府の暴走」になる)
(諸侯を刺激する)
(クロエなら)
(孫として、家族として、名目が立つ)
(中立派の顔も潰さない)
アリシアは目を開けた。
同時に決断が落ちる。
「…クロエがお祖父様を動かすしかない」
机の隅。
薄い金属板に刻まれた紋章、王家の紋。
その横に、封蝋と紙。
普通なら使者を出す。
だが王国府が止まっている。
通行証も門の手続きも、今は敵の手にある。
(使者は止められる)
(握りつぶされる)
(あるいは、偽の返書が来る)
アリシアは視界の端に浮かぶ、小さなアイコンを見た。
ツインリンク。
姉妹だけの秘密。
漏れれば致命傷。
だが、漏れない限り最短だ。
(使う、今しかない)
(ただし、最低限の言葉だけ)
アリシアは、ツインリンクに意識を向ける。
セリフスタンプの一覧。
短い単語の組み合わせ。
彼女は迷わず選ぶ。
感情を捨て、命令にする。
「緊急」
「王国府」
「占拠」
「祖父」
「動いて」
「港都」
「血を流すな」
送信。
送った瞬間、アリシアは息を止めた。
この数秒で、何かが漏れる気がした。
世界が耳を澄ます気がした。
ツインリンクは沈黙したまま、淡々と通知音だけを返した。
「…頼むわ、クロエ」
それは女王の言葉ではない。
姉の言葉だ。
アリシアは次の指示を出すため、近衛隊長を呼ぶ。
「王宮の守りを厳に」
「王弟派の動きがあれば即報告」
「騎士団長には、絶対に暴走させるなと伝えて」
そして、最後に。
「今、港都に必要なのは軍じゃない」
「鍵と、手順と、静かな刃よ」
夜明けが近い。
時間は敵だ。
だが、味方にもできる。
味方にできるのは、
動かすべき駒を、間違えない者だけだった。
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