第18話 カナシミノカケラ
王宮の回廊は、冷たかった。
石が冷たいのではない。人の息が冷たい。
泣き声を押し殺すほど、空気は固くなる。
担架が運ばれてくる。
最初の担架には、国王アルベルトがいた。
濡れた髪。閉じた瞼。
動かない。
侍医の手が胸元に当てられ、短く首を振る。
「…陛下は、既に」
その言葉が落ちた瞬間、周囲の時間が止まった。
止まったのは皆の心だけで、現実は止まらない。
次の担架。
王妃カタリーナ。
生きている。
だが、息は浅い。
顔色は紙のように白く、唇は青い。
腹部の布が、赤く染まっている。
刺さったものを抜けなかったのか、それとも抜いたのか。
いずれにせよ、出血がひどい。
「早く!奥へ!」
侍医が叫び、侍女が泣きながら走る。
王宮はこの国で一番の医療が揃う。
助かる確率が最も高い場所。
だから、ここへ運ぶしかない。
アリシアは担架の横を歩きながら、冷静に状況を切り分けていた。
(失血性ショック)
(腹部穿通。内臓損傷の可能性)
(この国の外科技術…無理だ)
令和の日本なら、輸血がある。
麻酔がある。
手術室がある。
抗生剤がある。
集中治療がある。
(助けられる)
(…助けられた)
その思考が浮かんだ瞬間、喉の奥が熱くなった。
鉄火場は知っている。
官僚だった頃、紛争国で救えるはずの命が消えるのを見た。
だから分かる。
これは、たぶん、無理だ。
それでも足は止まらない。
止めたら、本当に終わる。
奥の医療室の扉が開き、担架が入る。
血の匂い。
薬草の匂い。
熱い湯の匂い。
祈りの声。
アリシアは、扉のすぐ外で立った。
動くな。揺らすな。余計な空気を持ち込むな。
そう自分に言い聞かせる。
その時。
廊下の向こうから、足音が来た。
小さいのに、必死で、乱れている。
侍女の制止の声が混じる。
「姫様っ、待ってください!」
「お姿を!」
「離して!」
その声は、子どもであるはずの声だった。
だが、感情だけは大人の刃だった。
アリシアが振り向く。
そこにいたのは、銀髪の少女。
まだ“表に出られない第二王女”。
病で引き籠っていることになっている妹。
クロエ。
侍女の腕を振りほどき、髪も乱れ、息を切らしている。
所作も礼儀も、全部かなぐり捨てて。
ただ、父母のところへ来た。
アリシアは一瞬だけ、言葉を失った。
怒るべきだ。止めるべきだ。隠すべきだ。
だが、次の瞬間、その全部が吹き飛ぶ。
(クロエ…)
クロエはアリシアを見た。
そして扉を見た。
状況を一瞬で理解し、顔色が抜ける。
「…母上は」
アリシアは、ほんのわずか首を振った。
生きているのか助かる”のか、その差を言葉にできない。
クロエの喉が鳴る。
「父上は」
アリシアは、今度ははっきり頷いてしまった。
否定ではない方に。
それが答えだ。
クロエの目が、震えた。
その時、医療室の中から、侍医の声が漏れた。
「意識が…戻るかもしれません!」
扉が少し開く。
熱い空気と血の匂いが流れ出す。
アリシアは迷わず言った。
「入る」
クロエも、アリシアの後に続く。
医療室の中。
カタリーナは寝台に横たわっていた。
呼吸は浅い。
腹部の布は赤く、侍医の手が押さえ続けている。
そして。
カタリーナの瞼が、わずかに動いた。
「…ア…」
声にならない声。
アリシアが、寝台の横に膝をついた。
第一王女ではない。
ただの娘として。
「母上、ここにいます」
クロエも反対側に立つ。
握りしめた小さな手が震えている。
「…アリシア」
「あなたは…強い子」
「強すぎるくらい…」
アリシアの指が、母の手を握る。
冷たい。どんどん冷える。
「…強くなくても、いいのよ」
その言葉が刺さった。
アリシアの心のどこかが、ひび割れた。
カタリーナの視線が、クロエへ移る。
「…クロエ」
「あなたは…優しい」
「…お願い、アリシアを…一人にしないで」
クロエは頷く。
何度も頷く。
声が出ないから、頷くしかない。
カタリーナの唇が、小さく笑う。
「…二人なら…できる」
「陛下が…皆が守った、この国を…」
息が、途切れそうになる。
侍医が血を押さえる手を強める。
それでも血は止まらない。
カタリーナは、最後に自分の腹へ視線を落とした。
指先が、かすかに震える。
「…ごめんね…」
誰に言ったのか、分かり切っていた。
「…ごめんね」
アリシアの喉が詰まる。
クロエの肩が震える。
カタリーナは、もう一度だけ二人を見た。
見えないのに、見ようとした。
「…愛してる」
それだけ言って、息を吐いた。
吐いた息が戻らない。
医療室の中で、時間が止まった。
侍医が声を張り上げる。
「王妃様!」
だが、止まったものは戻らない。
アリシアは母の手を握ったまま動かない。
クロエはその場に崩れそうになり、歯を食いしばって耐えた。
二人は。
初めて本当の意味で、国の前に立つ理由を得てしまった。
侍医は、ゆっくりと頭を下げた。
その動きだけで、答えはもう出ている。
「…王妃殿下」
「お隠れになりました」
言葉が、医療室の空気を切った。
誰かが嗚咽を漏らし、すぐに押し殺す。
祈りの声が短く途切れる。
血の匂いだけが残る。
アリシアは、母の手を握ったまま動かない。
握り返されない手を、まだ離せない。
クロエは反対側で固まっていた。
泣くという行為が、体から抜け落ちたように。
ただ、胸の奥が空洞になっていくのを感じていた。
その時、背後で衣擦れの音がした。
宰相だ。
宰相は顔色が悪かった。
いつもなら感情を表に出さない男が、今は隠しきれていない。
目の奥が揺れている。
手がわずかに震えている。
それでも、彼は膝をつき、アリシアへ頭を垂れた。
「…殿下」
声が、かすれた。
この場で言うべき言葉ではない。
娘が母の亡骸の前にいる時に、投げるべき問いではない。
宰相自身が、それを理解している。
理解していても。
避けられない。
アルトフェンには、余裕がない。
王と王妃を同時に失うなど、国家としては致命傷だ。
空白は、刃になる。
帝国も連邦も、そして国内の諸侯も、空白に食いつく。
宰相は、唇を噛み、言葉を絞り出した。
「…どうなされますか」
「殿下」
言い終えた瞬間、宰相の喉が小さく鳴った。
まるで自分の言葉で自分を傷つけたみたいに。
それでも、問いは置かれた。
ここにいる少女は、ただの娘ではない。
ただの子どもでもない。
王族。
そして。
王位継承権第一位。
アリシアは、母の手をゆっくりと置いた。
指先が離れるまでに、妙に時間がかかった
立ち上がる。
十三歳の背丈。
でも、その背中は今、急に大人のそれに見えた。
目が赤くならない。
声も震えない。
震えさせることが許されないと知っているから。
アリシアは短く息を吸って、言った。
「空白は作らない」
その一言が、医療室の空気をさらに冷たくした。
冷たいのに、誰も反論できない。
それが正しいからだ。
宰相の肩が、ほんのわずかに落ちた。
安堵ではない。
覚悟が決まったという確認だ。
「…承りました」
宰相は頭を下げ、すぐに顔を上げる。
もう、次の段取りに頭が切り替わっている。
切り替えないと、国が死ぬ。
「戴冠の準備を」
「本日中に」
近衛隊長が一歩前へ出る。
「王弟殿下の動きが読めません」
「空白を作れば、摂政を名目に動くでしょう」
宰相が低く言う。
「ええ。今この瞬間も、諸侯は嗅いでおります」
「王家が折れた匂いを」
アリシアは答えた。
「折れていない」
「折れたなら…ここで終わる」
その声は、王女の声ではなく、すでに王の声だった。
そして彼女は、最後に一度だけ、寝台の方へ視線を戻した。
母の顔。
戻らない温もり。
ほんの一瞬だけ、目が揺れた。
揺れたのは感情ではない。
人間としての最後の未練だ。
だが次の瞬間、その揺れは消える。
アリシアは宰相に言った。
「儀式を整えて」
「それと…」
言葉を切り、クロエを見た。
医療室の片隅に立つ小さな影。
表に出せないはずの王妹。
今ここにいるという事実そのものが、もう決断だ。
アリシアは、静かに告げた。
「クロエは、私のそばに置く」
「今から」
クロエの喉が鳴る。
逃げ場がなくなる。
でも、逃げたら姉が一人になる。
クロエは、ゆっくり頷いた。
その頷きは、子どものそれではなく、誓いだった。
宰相は目を伏せた。
一瞬だけ、胸の奥で何かが痛んだ顔をして、すぐに消す。
「…承りました」
「では、殿下—」
宰相は、言い換えた。
もう“殿下”では足りない、と。
「陛下の御前にて、全てを進めます」
アリシアは答える。
「行く」
母の亡骸を背にして。
父の亡骸をまだ見ぬままに。
少女は、王になりに行った。
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