幕間② 犬を飼いたい姉姫様
牢は冷たい。
石は濡れていないのに、体の奥まで湿る。
鎖はない。
必要ないからだ。
ここにいる時点で、もう詰んでる。
逃げ道はない。命も、価値も、名前も。
黒装束は壁にもたれ、天井を見ていた。
見上げても、そこに空はない。
あるのは石の継ぎ目だけ。
(…失敗したら死ね)
それが掟だった。
帝都のスラムで、最初に覚えた言葉だ。
次に覚えたのは、殴られる前に殴れ。
奪われる前に奪え。
助けを待つな、誰も来ない。
生まれた場所に、親はいなかった。
正確には“いた”のかもしれないが、何も覚えていない。
腹が減って、手が震えて、息が白くて、
それでも朝は来る。
朝が来るたびに、生き残った者だけが、正しかったことになる。
石を投げて食べ物を奪った。
泣いている子どもを踏みつけて黙らせた。
そうでもしないと、自分が消える。
(俺は…生きる)
そう決めた。
その決意が、違う形で答えを返した。
熱。
胸の奥が焼けるように熱くなって、
指先から何かが漏れた。
暗い路地で、黒装束は見えない糸を掴んだ。
空気が少しだけ歪み、足音が消えた。
(…何だ、これ)
次の瞬間、背後にいた男が目を見開いた。
「魔法?」
魔法。
スラムでも言葉だけは知っている。
高い壁の向こう、貴族の宴、軍の魔術師団。
平民が一生縁のない、別世界の力。
それが、自分の中から出た。
黒装束は笑った。
涙が出るほど笑った。
(神様、やっと俺を見たか)
見たのは神じゃなかった。
盗賊ギルドだった。
路地の角に立っていた男たちは、優しかった。
優しすぎて、怖かった。
「腹は減ってるか?」
「寝床はあるか?」
「名前は?」
黒装束は嘘をついた。
嘘をつくのは簡単だ。生きるためだから。
「…ロウ」
その時に名乗った名は、いつの間にか自分の皮になった。
本当の名は、もう思い出せない。
ギルドは育てた。
食わせた。寝かせた。教えた。
剣。短剣。毒。縄。合図。
足音の消し方。目線の外し方。
人の欲と恐怖の匂い。
そして魔法。
派手な火球じゃない。
雷でもない。
地味で、いやらしくて、役に立つ魔法。
息を薄くする。
影を濃くする。
身体を少しだけ軽くする。
戦場の英雄にはなれない。
王の寝室に入るには十分な魔法。
ギルドの掟は簡単だった。
成功すれば生きる。
失敗したら死ね。
それは脅しではなく、秩序だった。
失敗した者を守れば、次の仕事が来ない。
だから、失敗した者は…消える。
黒装束は何度も成功してきた。
家門の恥を消し、証拠を消し、人を消した。
自分が何者かなんて考えない。
考えた瞬間、迷いが生まれて死ぬ。
(俺は刃だ)
(握られた刃は、切るだけ)
今回の仕事も、その延長だった。
アルトフェン。小国。回廊。
狙いは第二王女。
殺すつもりはない…と、上は言った。
“上”。
伯爵。
いや、その上にいる何か。
(政治の匂いが濃すぎる)
だから嫌だった。
政治は刃を錆びさせる。
でも断れない。ギルドは命令する。
行った。
侵入した。
赤子を見つけた。
そこまでは、いつも通りだった。
いつも通り、のはずだった。
赤子の目が、こちらを見た。
怯えでも、驚きでもない。
“観察”だった。
そして侍女が動いた。
剣の気配。間合い。
抱えたまま戦える女。
(やばい)
魔法で影を伸ばし、窓へ飛ぶ。
逃げる。逃げる。逃げる。
…逃げ切れたと思った瞬間が、一番危ない。
翌日。
硬貨の件で王宮が動いた。
動きが早い。早すぎる。
ギルドに戻る暇もなく、次の命令が来た。
“硬貨を回収しろ”。
ふざけるな。
回収なんて、現場を知ってる奴がやれ。
そう思った。
でも下請けは口を閉じる。
閉じないと首が飛ぶ。
そして、焦った。
それが間違いだった。
罠だった。
六歳の小娘が、恐ろしく冷たく仕組んだ罠。
魔法使いがいた。封魔。足止め。
近衛が雪崩れ込む。
鉄のような手で抑えられた。
気づいた時にはここにいた。
(失敗した)
(掟だ)
(死ね)
黒装束は、天井を見たまま口の中で呟く。
「…死ね、か」
死ぬのは怖くない。
怖いのは、無駄に死ぬことだ。
ギルドは、もう自分を捨てる。
切り捨てる。回収しない。
(俺は…捨て駒)
それだけは理解できる。
足音が来た。
軽い。
扉の前で止まり、鍵が回る。
看守が頭を下げた。
牢の扉が開く。
そこに立っていたのは、金色の髪の少女だった。
小さな体。整った顔。
しかし…。
目が、刃だ。
黒装束は笑いそうになった。
こんな幼いのに。
自分よりよほど世界を知っている目だ。
少女は一歩だけ近づき、牢の中を見渡した。
汚れ、臭い、薄暗さ。
それでも眉一つ動かさない。
「よく眠れた?」
黒装束は肩をすくめた。
「処刑前のご挨拶か?」
口は強がる。
強がらないと、ここでは終わりだ。
少女は首を傾げる。
子どもらしい仕草で、子どもらしくない言葉を落とす。
「犬が欲しいの」
黒装束は固まった。
「…は?」
少女は平然と続ける。
「犬は忠実で、鼻が利いて、よく噛むでしょ」
「王宮には必要なの」
黒装束の喉が鳴る。
冗談?遊び?
いや…この目は冗談を言わない。
「お前は処刑される」
「表向きにね」
黒装束の背中に冷たい汗が流れた。
(生かす?)
(俺を?)
そんなこと、あり得ない。
掟に反する。ギルドが許さない。
いや、ギルドより先に…王宮が許さない。
でも少女は、王宮の“裏”を前提に話している。
「お前はもう“いない”」
「だからこそ、使える」
黒装束は笑った。
「飼い犬にするなら、鎖が要るだろう」
「俺は噛むぞ」
少女は頷いた。
「噛める犬が欲しいの」
「ただし、噛む相手は私が決める」
黒装束は、そこで理解した。
(俺は)
(死ぬか)
(…別の形で生きるか)
掟は“失敗したら死ね”。
なら、死んだことにすればいい。
自分の中で、何かが切り替わる。
黒装束はゆっくりと頭を下げた。
初めて、心から。
「何をすればいい」
少女は一言で答えた。
「妹を守れ」
黒装束の胸が、わずかに揺れた。
(俺が殺そうとした相手を?)
矛盾している。
でも矛盾は、王宮では日常だ。
さらに続ける。
「内外の匂いを嗅げ」
「私が噛めと言ったら、噛め」
黒装束は、息を吐く。
「ギルドは俺を捨てる」
「追ってくるぞ」
少女は即答した。
「追わせない」
「追ってきたら、私の犬が噛む」
黒装束は、もう迷わなかった。
迷うのは死ぬ時だ。
「…御意、殿下」
アリシアは小さく頷く。
「名前が必要ね」
「犬には名をつけないと」
黒装束の喉が動く。
(名前)
忘れていたもの。
アリシアは淡々と言った。
「ノクス」
夜。
影。
犬にはぴったりだ。
黒装束、ノクスは、その名を飲み込んだ。
飲み込んだ瞬間、もう後戻りできない。
(俺は死んだ)
(そして、影になった)
牢の外に出る。
看守の目は見ない。
もういない人間だからだ。
熱が冷めきらない王宮で、
新しい牙が、静かに飼われた。
外から使者が来るのは、もうすぐだ。
けれどその前に、王宮は自分の闇を整えた。
夜が更け、王宮の喧騒がようやく薄まった頃。
アリシアは自室の小机に肘をつき、ふっと息を吐いた。
やるべきことは山ほどあるのに、不意に思い出す。
(そうだ)
(あの子に言ってなかった)
妹。
奥の間に閉じ込められたままの、小さな月。
アリシアは指先で視界の隅をなぞる。
誰にも見せない動作。
誰にも知られない“姉妹だけの秘密”。
ツインリンクが起動する。
アリシアは一瞬だけ迷い、選んだ。
「犬、飼う」
送信。
送った直後に、少しだけ後悔した。
(…説明が足りない)
(いや、いいか)
(いつか、ちゃんと会える)
数秒後。
ぴこん、と返事が来る。
「は?」
続けて、もう一つ。
「わんわん?」
アリシアは思わず口元を押さえた。
笑い声が漏れそうになるのを堪える。
(…そうなるわよね)
(普通の犬だと思うわよね)
六歳の王女は、椅子の上で小さく足を揺らした。
王宮では許されない、ほんの一瞬の素。
返事を打とうとして、やめる。
(今は、これでいい)
アリシアはツインリンクを閉じ、窓の外を見た。
夜の王宮。
静かで、危うくて、それでも守るべき場所。
影の中で、ノクスが動いている。
奥の間では、クロエが首を傾げている。
犬を飼った。
太陽が、夜を飼った。
それだけのことだ。
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