第9節:外界への第一歩
朝霧が谷を包む中、カナデは石造りの展望台に立っていた。
足元に広がる光景は、三ヶ月前とは大きく変化していた。整然と区画された農地には青々とした作物が並び、新設された水路が陽光を反射している。住居は頑丈な石材で補強され、煙突から立ち上る煙も以前より濃く、安定していた。
「すべて、順調に進んでいますね」
背後からリーアの声が聞こえた。振り返ると、彼女は小さな革袋を肩にかけ、歩きやすい装いに身を包んでいる。今日は約束の日だった。谷の外への、最初の偵察行。
「ええ。皆さんのおかげです」
カナデは空を見上げた。雲の流れが、いつもより速く感じられる。風向きも微妙に変わっていた。季節の変化だろうか。それとも——。
「他の領域の様子、気になりませんか?」
リーアの問いかけに、カナデは頷いた。谷の発展が軌道に乗った今、外界への関心は日に日に強くなっていた。システム・アーキテクトとしての本能が、より大きな全体像を求めている。
展望台の下では、フォスとサナが最終的な準備を進めていた。水筒、非常食、簡単な測量道具。そして、護身用の石槍。谷の外がどのような環境か、まったく予想がつかなかった。
「では、参りましょう」
四人は南の峠道を選んだ。谷を出る経路としては最も緩やかで、偵察には適している。足音が岩の上で響くたび、心拍が微かに早くなった。未知への興奮と、わずかな不安が混在している。
峠を越えた瞬間、視界が一気に開けた。
「これは……」
眼下に広がっていたのは、想像を遥かに超える光景だった。複数の川が合流する肥沃な平野。遠方には規則正しく整列した建物群が見える。明らかに、高度な文明の痕跡だった。
「あそこにも、誰かが住んでいるのでしょうか」
サナが指差した方向には、白い煙が細く立ち上っている。生活の証だった。しかし、その煙の色と形状が、どこか不自然に感じられる。
リーアが身を乗り出し、耳を澄ました。彼女の石聴きの能力が、何かを感知したのだろう。表情が徐々に険しくなっていく。
「遠くから、奇妙な共鳴が聞こえます。石たちが……怯えているような」
その時、平野の建物群から光が閃いた。瞬間的な、青白い輝き。直後に、大気が振動するような感覚が峠まで伝わってきた。
四人は反射的に身を低くした。何が起きたのか、理解が追いつかない。しかし、観測した現象を整理すると、いくつかの点で自然現象だけでは説明しづらい要素があった。光の発生タイミング、建物群との位置関係、そして直後の大気振動の伝播パターン。
「戻りましょう」
カナデの判断に、三人は無言で頷いた。今日の偵察で得た情報は、予想以上に重大だった。谷の外には確実に他の文明が存在し、そして、それは決して平穏ではない。
峠道を引き返しながら、カナデは今日の観測結果を整理していた。外界には確実に他の文明が存在する。建物の配置パターン、煙の発生源、そして説明困難な光現象。これらの情報から読み取れることは多いが、まだ不足している要素も多い。
発光現象の周期性、建物群の活動パターン、住民の存在とその意図。正確な判断を下すには、継続的な観測と、より詳細なデータの蓄積が必要だった。
夕陽が谷を金色に染める頃、四人は無事に帰還した。しかし、新たに浮上した課題の重みを、全員が感じ取っていた。