第4節:水利インフラの構築
翌朝、川辺に集まったのは私と三人だけではなかった。谷の住民の半数近くが作業道具を持参して待っている。昨日の話が伝わって、水の問題を解決する作業に参加したいと申し出てくれたのだ。
「これだけ多くの方に協力していただけるとは」
リーアが笑顔で答える。
「水は私たち全員にとって大切ですから。それに、カナデ様の知識を教えていただける機会でもあります」
住民たちの表情を見ると、期待と不安が混じっている。変化への希望と、失敗への恐れ。前世でプロジェクトを始める時にチームメンバーが見せる表情と同じだった。
「まずは水の流れを詳しく調べてみましょう」
私は川の上流に向かって歩き始めた。昨日の観察で、水の分岐が不自然だと感じた地点を実際に調査したい。住民たちも後に続く。
上流部に到着すると、川幅が狭くなって水の流れが速くなっている。しかし、この地点から下流にかけて、水路が複数に分岐している様子が確認できる。
「この分岐は、いつ頃からあるのですか?」
年配の住民の一人が答えてくれた。
「私の祖父の代からあったと聞いています。でも、最近は水の配分が変わってきて」
フォスが川岸の石を調べながら言った。
「分岐点の石に、人工的な刻みがあります。水の流れを調整するためのものかもしれません」
私も石を確認してみる。確かに、水の流れを特定の方向に導くような形の溝が刻まれている。この技術は、かなり高度な水利工学の知識がなければ作れない。
「古代の住民は、相当な技術を持っていたようですね」
リーアが石の表面に手を置いて、集中している。しばらくして彼女が顔を上げると、困惑した表情を浮かべていた。
「この石は、最近誰かが触ったような感触があります。でも住民の中で、ここに来た人はいないはず」
最近誰かが触った、という感覚は気になる。しかし今は水路の改善を優先すべきだろう。
「まず現在の水の流れを整理してから、改善案を考えましょう」
私たちは分岐点から下流に向かって、それぞれの水路がどこに向かっているのかを確認していった。歩いていると、足元の地面が微かに湿っていることに気づく。表面は乾いているのに、少し掘ると湿った土が出てくる。
「地下に水脈があるのかもしれません」
フォスが道具を使って、地面の状態を調べている。彼の集中した表情を見ていると、石から何らかの情報を得ているようだ。
「ここから三十歩ほど先に、太い水脈が走っています。現在の水路よりも水量が多いかもしれません」
彼の指摘した場所を確認すると、確かに地面の色が微妙に違っている。植物の生え方も、周囲より濃い緑になっている。
「その水脈を地表に引き出すことができれば、水不足の問題は大幅に改善されそうですね」
住民たちの表情が明るくなった。ただし、地下水脈を地表に引き出すには、相当な掘削作業が必要になる。
「作業は段階的に進めましょう。まず試掘をして、水脈の深さと水質を確認します」
午前中は試掘地点の選定と、作業の手順を住民に説明することに費やした。幸い、この谷の住民は石を扱う技術に長けているため、掘削作業の基本的な技能は持っている。
昼食後、実際の掘削作業が始まった。最初の一時間は順調に進んだが、予想以上に地面が固く、作業は思うように進まない。
私も掘削用の道具を借りて作業に参加した。前世ではデスクワークが中心だったため、この種の肉体労働は慣れていない。三十分ほど作業を続けると、手の平に水膨れができ始める。
「カナデ様、少し休憩されては」サナが心配そうに声をかけてくれた。
「大丈夫です。皆さんと一緒に作業したいので」
実際には手の平が痛み始めているが、住民たちと同じ作業をすることで、彼らとの信頼関係を築きたかった。前世でも、チームとの信頼関係構築には時間をかけていた。
作業を続けていると、掘削している穴の底から、わずかに湿った土が出てきた。フォスが確認すると、水脈に近づいている証拠だという。
「あと少しで水に到達しそうです」
住民たちの作業にも熱が入る。しかし、日が傾き始めた頃、予想外の問題が発生した。穴の側面の土が崩れ始めたのだ。
「危険です。一度作業を中止しましょう」
安全を優先して、その日の掘削は終了することにした。住民たちは疲労していたが、失望した様子はない。むしろ、明日への期待を感じさせる表情だった。
夕食後、リーアと一緒に作業現場を確認しに行った。夕暮れの光の中で、掘削した穴を覗き込むと、底に薄っすらと水が溜まっているのが見える。
「水が出てきてますね」
「本当ですね。明日はうまくいきそうです」
彼女の声に安堵が混じっている。しかし、穴の周囲の石を見ていると、またしても人工的な刻みを発見した。この刻みは、昨日見たものよりも新しく見える。
「リーア、この刻みは?」
彼女も石を確認して、首を傾げた。
「今日、作業中には気づきませんでした。誰かが刻んだのでしょうか?」
今日一日、この場所には常に誰かがいた。それなのに、いつの間にか新しい刻みが現れている。これは明らかに異常な現象だ。
翌日の朝、掘削の続きを始める前に、穴の状態を確認した。昨夜よりも水位が上がっていて、底から清水が湧き出している様子が確認できる。
「成功ですね」フォスが嬉しそうに言った。
しかし、水質の確認が必要だ。サナに水を確認してもらうと、飲用にも適した良質な水だということが分かった。
「この水を谷全体に配水するには、水路を整備する必要があります」
私は地形を確認しながら、配水ルートを検討した。幸い、谷の地形は水が自然に流れやすい傾斜になっている。適切な水路を作れば、重力を利用して配水できるはずだ。
配水路の建設は、掘削よりも複雑な作業になった。水の流れる角度、水路の幅、分岐点の位置。すべてを正確に計算して作らなければ、効率的な配水はできない。
作業中、住民の一人が不思議そうな表情を浮かべた。
「カナデ様、この水路の形は、古い遺跡で見たことがあります」
「古い遺跡?」
「谷の奥にある石の建造物です。そこにも、同じような水路の跡があって」
これは重要な情報かもしれない。古代の住民が既に同様の水利システムを作っていたとすれば、その知識を参考にできる可能性がある。
「作業が一段落したら、その遺跡を見せていただけますか?」
「もちろんです」
配水路の建設は三日間かかった。住民全員が交代で作業に参加し、見事な水路が完成した。試験的に水を流してみると、計算通りに谷の各地に水が届く。
「素晴らしい」リーアが感嘆の声を上げた。「こんなに安定して水が使えるようになるとは」
住民たちも同様に喜んでいる。しかし、私は配水の様子を見ていて、妙な感覚を覚えていた。水の流れが、計算よりもスムーズすぎるのだ。
まるで水路自体が、最適な流れを作り出すように調整されているような感覚。前世でシステムを設計した時、時々経験した「予想以上にうまく動く」現象に似ている。
夕方、約束通り古い遺跡を見に行った。谷の奥、山際にある石造りの建造物は、想像以上に大規模で複雑な構造をしていた。
「これは……」
遺跡の中央部には、確かに水路の跡がある。しかも、私たちが今日作った水路とほぼ同じ設計思想で作られている。古代の住民は、現代の水利工学と同等の知識を持っていたということになる。
さらに驚いたのは、遺跡の石壁に刻まれた文字や記号だった。複雑な幾何学模様と、数字のような記号が組み合わされている。
リーアが石壁に手を置いて、いつものように集中している。しかし今回は、彼女の表情が次第に緊張していく。
「何か聞こえますか?」
「警告のような……何かを注意しろと言っているような声です」
警告。古代の住民が後世に残した警告があるとすれば、それは重要な情報かもしれない。しかし、その内容を正確に理解するには、もっと時間が必要だろう。
帰り道、水路に最後の確認をしていると、工事現場のあちこちで新しい刻みが石に現れているのを発見した。どれも人工的で、複雑なパターンを持っている。
「この刻みのことを、他の住民に相談してみましょう」私は三人に提案した。「もしかすると、谷全体で同様の現象が起きているかもしれません」
その夜、水利工事の完成を祝う小さな集会が開かれた。住民たちは新しい水路から流れる清水を飲みながら、明日への希望を語り合っている。
しかし私は、祝宴の賑やかさの中で、足元から伝わってくる微かな振動を感じていた。工事の影響ではない、もっと深い場所からの規則的な振動。それはまるで、地下で何かが動いているような感覚だった。