第2節:石詠みの一族との邂逅
リーアは水甕を置くと、もう一度深く頭を下げた。その動作の中に、慣れ親しんだ礼儀作法が見える。この谷の人々には、独自の文化が根付いているのだろう。
「忘れられた谷のことを、お聞かせいただけますか」
私の言葉に、リーアの肩が少し緊張で強ばった。それでも彼女は顔を上げて、困ったような笑みを浮かべる。
「お恥ずかしいのですが、カナデ様のような方に説明できるほど、私たちの暮らしは立派なものではありません。ただ……石と共に生きてきただけです」
石と共に、という表現が気になった。前世でインフラ関連のプロジェクトに関わった経験から、資源と人の関係性に敏感になっている。この谷での石は、単なる建材以上の意味を持っているのかもしれない。
川のせせらぎが続く中、遠くから複数の足音が近づいてくる。リーアは振り返ると、安堵したような表情を見せた。
「フォス、サナ、こちらに」
声をかけられて現れたのは、二人の住民だった。一人は私より少し年上に見える男性で、がっしりとした体格をしている。土埃がついた作業着を身に纏い、手には見慣れない道具を持っていた。もう一人は年配の女性で、腰に小さな革袋をいくつもぶら下げている。どちらも、リーアと同じように私を見ると深々と頭を下げた。
「フォスと申します」
男性の声は低く、落ち着いている。挨拶と同時に、彼は手にしていた道具を地面に置いた。よく見ると、先端が平たく広がった棒状の器具だった。土を掘り起こすためのものだろうか。
「サナです。お会いできて、光栄です」
年配の女性の方は、声に温かみがある。革袋からは、何かの草の匂いが漂ってくる。薬草を扱っているのかもしれない。
「私はカナデです。この谷で、お力になれることがあれば」
私の言葉に、三人は顔を見合わせた。リーアが先ほどとは違う、困惑した表情を浮かべる。
「お力、ですか?」
「お導きを、という意味では」サナが補足するように言った。「私たち石詠みの一族は、代々この谷で石の声を聞き続けてきました。でも最近は……」
彼女の言葉が途切れる。フォスが重いため息をついた。
「水が足りません。作物も思うように育たない。石が教えてくれることも、以前ほど明確ではなくなって」
石が教える、という表現が二度出てきた。前世でシステム開発をしていた時、データベースから情報を引き出すことを「データが教えてくれる」と表現することがあった。彼らにとって石は、何らかの情報源になっているのだろうか。
「石の声を聞く、というのは?」
私の質問に、リーアが川辺の石を手に取った。手のひらサイズの滑らかな石だ。彼女はそれを両手で包み込むように持って、目を閉じる。
数秒の静寂が流れた。川の音だけが続いている。やがてリーアが目を開くと、彼女の表情が少し明るくなっていた。
「この石は、三日前の雨を覚えています。水の量、降り続いた時間、雨粒の重さまで」
彼女の手から石を受け取ると、ただの石にしか感じられない。温度と重量、表面の滑らかさ。それ以上のことは分からない。
「不思議ですね」
率直な感想を口にすると、フォスが苦笑いを浮かべた。
「私たちにとっては、生活の一部なのです。土の状態を知るには石に聞くのが一番確実で」
彼は自分の道具を手に取り、近くの地面に突き刺した。土を掘り起こすのではなく、器具の先端を地面に押し当てているだけだ。それでも彼の表情が集中している。
「ここの土は、水を通しにくい。粘土質が混じっていて、根が張りにくい状態です」
道具を引き抜いて、フォスは私に説明した。先端についた土を指でつまんで、匂いを嗅いでいる。
「前世で農業関連のプロジェクトにも関わったことがあります」私は言った。「土壌改良の方法はいくつかありますが、まずは水はけの問題から取り組むのが効果的だと思います」
三人の表情が変わった。驚き、というよりは期待に近い感情が見える。
「本当ですか?」リーアの声に興奮が混じっている。「私たちは代々この土地で暮らしてきましたが、改良の方法は分からなくて」
「まずは現状を詳しく把握する必要があります」私は言った。「谷全体の地形、水の流れ、土の状態。それから、皆さんがどのような作業をされているのか」
サナが革袋から小さな束を取り出した。乾燥した草を紐で縛ったものだ。
「薬草も、以前ほど効果のあるものが採れなくなりました。土が痩せているせいか、それとも別の理由があるのか」
彼女の手にした薬草の束からは、かすかに甘い香りが漂ってくる。見た目は地球で見たことのある薬草に似ているが、微妙に違う特徴もある。
「薬草の栽培も改善できるかもしれません」私は言った。「ただ、一つずつ確実に進めていく必要があります」
前世でプロジェクト管理をしていた時の習慣で、全体を俯瞰してから優先順位を決める思考が働いている。この谷の課題は複雑に絡み合っているようだが、解決できない問題ではなさそうだ。
フォスが地面を見つめながら、ぽつりと言った。
「最近、変な刻みを見つけることがあります」
「刻み?」
「石の表面に、人工的な線が刻まれているんです。古いもののようですが、私たちの先祖が残したものとは違って見える」
リーアが頷いた。
「私も感じています。石の声に、以前はなかった響きが混じることがあって。まるで、遠くから何かが語りかけてくるような」
二人の話に、サナも同調するように頷く。
「薬草を採りに行く時も、時々地面が微かに振動しているのを感じます。風とは違う、もっと深い場所からの揺れです」
三人の話を聞いていると、この谷には私がまだ知らない要素があることが分かる。人工的な刻み、石の声の変化、地面の振動。これらは偶然の現象ではなく、何らかのパターンがありそうだ。
「それらの現象について、もう少し詳しく教えていただけますか? 場所や時間、頻度など」
私の質問に、三人が興味深そうな表情を浮かべた。まるで、初めて自分たちの気づきを真剣に聞いてくれる人に出会ったような反応だ。
「明日から、一緒に谷を回ってみませんか?」リーアが提案した。「私たちの日常を見ていただければ、何か解決の糸口が見つかるかもしれません」
「ぜひお願いします」
私は即答した。現場を見ることから始めるのは、前世でも常に実践していた基本だ。データや報告書だけでは見えない問題が、実際の現場には必ずある。
川のせせらぎが夕方の空気に響いている。日が傾き始めて、谷の奥から涼しい風が吹いてきた。この風に乗って、かすかに別の匂いが混じっている。土と草以外の、もっと複雑な香りだ。
「今日はありがとうございました」私は三人に向かって言った。「明日、よろしくお願いします」
三人は再び深く頭を下げたが、その動作の中に、先ほどまでとは違う親しみやすさが感じられた。初対面の緊張から、共に何かを始める仲間への変化が、空気の中にも現れている。
リーアが水甕を持ち上げながら言った。
「カナデ様、今夜はサナの家でお休みください。明日に備えて、しっかりと体を休めていただければ」
「ありがとうございます」
私は彼女たちに従って、谷の奥へ向かった。足元の地面は固く、歩くたびに小さな石がすれる音がする。その音に混じって、遠くから微かな音が聞こえてくる。人の営みの音とは違う、もっと深く、低い響きだった。