第1節:石詠みの谷で目覚めて
朝の光が頬を撫でる感触で、カナデは目を覚ました。
固い石の上に寝ていた。背中から伝わる冷たさと、体の節々に残る痛みが現実を告げている。見上げた空は、どこまでも澄んだ青だった。雲ひとつない空の下で、風が頬を通り抜けていく。
「ここは……」
声に出して初めて、自分が生きていることを実感した。昨日まで――いや、最後に記憶しているのは、深夜のオフィスで机に突っ伏した瞬間だった。締切前の炎上プロジェクト、三十六時間連続の作業、血管が切れそうなほどの頭痛。それから記憶が途切れて、気がつけばここにいる。
体を起こすと、周囲の景色が視界に飛び込んできた。三方を険しい山に囲まれた谷間。細い川が谷の中央を蛇行し、川沿いに点在する粗末な小屋群。煙が数本、空に向かって立ち上っている。
人の気配がする。生活の音が聞こえてくる。
「転生……なのか」
口にした途端、妙な納得感が心の奥に生まれた。まるで、ずっと知っていた事実を思い出したかのように。前世の記憶はそのまま残っている。技術者としての十年、管理者としての五年。炎上案件を立て直し続けた経験、チームをまとめ上げた記憶、すべてが鮮明だった。
立ち上がろうとして、足元の違和感に気づく。履いているのは見慣れない革靴。身に纏っているのは、白い布地に青い幾何学模様が刺繍された長衣だった。袖口の刺繍をよく見ると、電子回路のような複雑な線が織り込まれている。
「この服は……」
川のせせらぎが耳に届く。水音に混じって、人の声が聞こえてきた。作業をしている音。生活している音。この谷には、確実に人が住んでいる。
カナデは川に向かって歩き始めた。足元の地面は固く、草もまばらに生えているだけだった。痩せた土地だということが、一目でわかる。前世で関わった地方活性化プロジェクトの経験が、自然と分析を始めていた。
水源はある。住民もいる。だが、環境は厳しそうだ。
川辺に近づくと、水を汲んでいる女性の姿が見えた。二十歳前後だろうか。茶色の髪を後ろで束ね、質素な衣服を身につけている。水甕を抱えて立ち上がろうとした時、カナデと目が合った。
女性の目が大きく見開かれる。水甕を地面に置くと、慌てたように頭を下げた。
「お疲れさまです」
カナデは前世の癖で、つい挨拶を口にしていた。女性は顔を上げ、困惑したような表情を浮かべる。
「あの……神様ですか?」
神様。
その言葉が、妙にしっくりと心に収まった。疑問を感じるべき状況なのに、まるで当然のことのように受け入れている自分がいる。前世の記憶と現在の状況が、矛盾なく並存している。
「カナデと言います。この谷について、教えていただけますか?」
女性は安堵したような表情を見せ、改めて頭を下げた。
「リーアと申します。ここは忘れられた谷と呼ばれています。私たちは石詠みの一族……カナデ様のお導きをお待ちしておりました」
お導き。プロジェクトの新しい現場に配属された時の感覚に似ている。状況を把握し、課題を整理し、解決策を見つける。やるべきことは決まっている。
「よろしくお願いします、リーアさん。まずは状況を教えてください」
リーアの表情が明るくなった。その瞬間、川の水面がきらめき、風が心地よく頬を撫でていった。まるで、この谷がカナデを歓迎しているかのように。
新しい道のりの始まりだった。