** 或る男の独白
錯乱した妻は医者に任せる以外にない。
麻酔を打たれた彼女はやがて気絶するように眠りにつき、「すこしでも休まれては」という医者の勧めに従って私は『白い小鳥の家』から外にでた。
彼女が愛した裏庭を見る気にはなれず、ぶらぶらと敷地内を歩く。季節は春だがさわやかな風もきらめく陽射しも私には無関係だ。
私の心にあるのはマレリーナだけ。私の最愛の妻だけだ。
十年まえ、私たちは夫婦となった。冷たい言葉をぶつけた男に彼女は太陽のような優しさで寄りそい、やがて氷のような孤独を溶かした。彼女のおかげで私は救われた。
だが、彼女が病で苦しんでいるいま。
私は彼女になにもしてやれない。彼女の言葉と愛情は私を救ってくれたのに、私の言葉と愛は彼女を救うことができない。
これでどうして夫だと言えるのだろう。
もし彼女を妻としたのが私以外のだれかならば。マレリーナを、救うことができたのだろうか……。
「やあ、国王殿下」
庭園をあてどなく歩いているとだれかに声をかけられた。ジャレオンだ。騎士団長として忙しい身なのは昔から変わらないが、義理の姉を案じてここのところはよく城に立ちよるようになっている。
「ああ……」
私はもごもごと返事をした。
十年まえ。まだ私が王として即位するまえのことだ。
あの夜──マレリーナがジャレオンの頬をぶつまで彼は私を『にいさん』と気安く呼んでいた。親愛の表れではない。むしろその逆で、隠しきれない軽蔑がそこには混ざっていたように思う。
けれど翌朝、彼は私のことを『王太子殿下』あるいは『ユーリク殿下』と呼ぶようになっていた。マレリーナのことも同じように。
呼び名こそ格式ばったものになったが、私はその呼び方にきょうだいとしての情が籠もっているように感じられたのだった。
「マレリーナ殿下の具合は?」
「……相変わらずだ。食事どころか、飲みものすら味がついているものは吐いてしまう。栄養剤は打たせているが……それでも日に日に痩せていく」
「ヒノメは独自の医療が発達していると聞いている」
遠い南にある島国の名を彼は挙げた。「国で一番の医師に手紙をだそう。すぐにでもきてもらえるように」
「感謝する、ジャレオン」
他国からジャレオンが医師を呼ぶのはこれが初めてではない。
名医がいると聞けば彼はすぐにでも手紙をだし、呼びよせ、マレリーナを診察させた。だが彼らの見立てはすべて────
「そんな顔しないでよ」
ジャレオンはおどけるように手を振る。「王妃殿下の病気はなんでもないんだ、かならずよくなる。あなたがそんな顔をしていては治るものも治らなくなってしまうよ」
「……ああ」
「王妃殿下のことはこの国のみんなが──いや、世界中のみんなが心配している」
私はうなずく。マレリーナはだれからも愛される王妃だ。それは間違いない。
「だからそんな心配は無用だという顔をしていてくれないか。王妃殿下の一番近くにいるあなたがそうしていれば、みんな安心するから」
「……わかった」
「元気をだせとは言わない。でも、病人のそばにいるひとは元気なふりをしていなきゃだめだよ」
またね、と言ってジャレオンは馬小屋があるほうへと歩いていく。幼い頃から彼は馬が好きだった。人間より接しやすいのかもしれない。
その背中を見送ってから、ふと彼はマレリーナだけでなく私のことも心配してここに滞在しているのではないかと気がついた。
私は手のひらで顔をこする。十年も二十年も年をとったとマレリーナは悲痛に叫んでいたが、私はどうだろう。ジャレオンと並べば私の老け方は歴然としているにちがいない。
嘘でも元気でいなければ──それはわかっている。だが。
最愛の妻が不治の病だと言われて、明るくいられる夫がはたして何人いるのだろう。
私は城の右翼にある礼拝堂へと向かった。
アーチ形の白い天井が頭にのしかかってくるようだ。正面の壁ではルネリさまが我々のために両手を胸のまえであわせて祈りつづけてくださっている。
ルネリ教はかつてこの地におわしたルネリさま──神の代弁者と呼ばれる彼がはじめたものだ。彼いわく、人間はみな生まれながらにして重い罪を背負っている。その罪をどうやって贖うかが人生の命題だ。贖罪のため、我々は清く正しく生きることを課せられている。
命が果てることをルネリ教では『祝福』と呼ぶこともある。前世からの罪が清算された、だから天国へゆける、というわけだ。
だがもちろん長生きの老人が罪深いというわけではなく、これはもっぱら幼くして天に召された子供の親やもう助かる見込みのない病人を慰めるため使われる考え方だ。
マレリーナは二度この考えに世話になった。一度目は、最初の子供が流れたとき。二度目は自身が患ったとき。
ひとりめの子供に現世で贖うべき罪はなかった。我が子は清らかゆえに天に召されまし。その考え方に我々は救われ、子供を育てられなかったという罪の意識を胸の奥にしまいこむことができた。そして、二度目は……。
「──ルネリさま」私は礼拝堂の冷たい床にひざまずく。「どうか、まだマレリーナを連れてゆかないでください」
私にはまだ彼女が必要なのです。
彼女に贖うべき罪はないでしょう。けれども。
人間は死ぬと天国へゆく。ただし、現世で罪を重ねてしまったものや信仰が足りなかったものはべつだ。もう一度贖いのために人間として生まれることとなり、その輪廻は罪が消えるまで終わらない。人生とは贖罪なのだ。
マレリーナに限ってそのようなことはないだろう。
彼女の命が絶えたとき。妻は、私をおいて遠くへいってしまう。
「ルネリさま……」
ふと私は自分の母が亡くなったときのことを思いだした。
私が四歳のときには塔に籠っていた母。私を自分の子ではないと言いはなった彼女のことを。
私は母が大好きだった。すこし神経質そうな碧色の瞳も、私を見つけるといつも優しく微笑んでくれたその顔も、抱きしめてもらったときのひんやりとした肌のつめたさも。私は母といると世界よりも広い愛情に包まれている気持ちになれた。
──その母が。
『私は子供など産んでいない。おかあさまなどと呼ばないで』
私が塔にある部屋へお見舞いにいくと、ベッドに座っている母は目を吊りあげてそう叫んだ。美しい母と同一人物とは思えない、鬼のような形相で。
あのとき。
私は、この世のどこにもいなくなったのだ。
大好きな母に存在を否定されて。大好きな母という存在が消えてしまって。
そのあとも私は母の見舞いにいこうとはしたけれど、また同じことを言われたらどうしようと思うと怖くて塔の階段を上ることができなかった。かわりに言いわけのように小さな花束を塔の足元に置いた。私にできたのはそれだけだった。
けれど、マレリーナはちがった。
あとから知ったのだが、彼女は私のもとへ嫁いでくると、時間のあるときは塔にいる母のところへ見舞いにいっていたのだそうだ。医者がきょうは面会できそうだと許可をだした日は、かならず。
彼女はそこで母の大切な友人となった。
姉となった。妹となった。時には看護婦になり、幼馴染の令嬢にもなった。
義理の娘にも──彼女はなった。
断ちきられた糸を紡ぎなおすように。マレリーナは母の記憶をたぐりよせ、息子である私の存在を思いださせた。すこしずつ。母が傷つかないように、丁寧に。
長年、自分の世界に閉じこもりつづけてきた母だ。外の世界と母を繋げるのは容易ではなかっただろう。けれど辛抱強くマレリーナはそれをおこなって──
ついに三年まえ。高熱をだして生死の境目をさまよいはじめた母は、ベッドに集まった私たち家族をなにか探すように視線だけ動かして見まわして……
ふいに、ぴたりとその目を私に据えて。
からからになった声で。こう言ったのだ。
──ユーリク、と。
それが母の最期の言葉だった。
実に二十年近く口にしていなかった息子の名前を最期に呼んで、母は息を引きとったのだった。
私はそのとき母に抱きしめられたのをはっきり感じた。昔のように。無償の愛で、細い二の腕で、母は私を抱きしめてくれた。
そのおかげで、深い病の向こうで母はずっと私を愛してくれていたのだと信じることができた。私など産んでいないと言わせたのは病気のせいであって本心ではない。彼女はずっと私の母親だったのだ、と。
マレリーナがいなければ母は私のことを思いだすことさえしなかっただろう。彼女だ。彼女が、私と母を救ってくれたのだ。
それなのに私は彼女が病んでいくところを見ていることしかできない。
神よ、と私はひざまずいたままつぶやかずにはいられなかった。
なぜマレリーナだったのですか。なぜ彼女が苦しまなければならないのですか。あんなにも心優しい彼女が、なぜ。
彼女の死が救済だと言うのならば。
彼女を失わなければならない私は、いったいどのような罪を犯したのですか?




