家族
「……」
ペンを回しながらそのことをずっと考えていると、足音とコーヒーのいい香りがした。
「翼、頑張ってるみたいね」
顔を上げるとそこにはお盆を持っている母親の日葵がいた。
「母さん…」
オレの前に音を立てずに湯気の立ったマグカップとチョコレートなどの洋菓子が乗せられた皿が並べられる。
「ほら、コーヒーとお菓子。頭を回すには糖分が必要でしょう?」
「いや、そんなに気遣わなくたっていいって」
「私がやりたいようにやっているだけだもの。それこそ余分な気遣いよ。いらないなら捨ててくるだけだし」
オレが遠慮すると母はさらりととんでもないことを吐かしてきた。せめて自分で食べるとかそういう選択肢はなかったのだろうか。
「…じゃあ、頂きます」
釈然としなかったが厚意に甘えることにした。チョコレートの包みを外して口に運ぶと、母は質問を投げかけた。
「美月と喧嘩したの?あの子最近様子変よ」
「喧嘩ってわけじゃ…ないけど」
ほんのりと苦い甘味が口内に広がる。どう答えるかべきか分からなくて目を逸らして曖昧な返事をした。
「あなたたちがどんなことをしても私になにか言う資格はないけれど、二人が喧嘩するのだけはダメ。お互いたった一人の家族なんだから」
まるで自分だけは他人のような物言い。父さんが死んでから母さんはいつもこうだ。オレと美月が自分の家族に相応しくないと思っているわけじゃない。むしろその逆。
自分自身がオレ達の家族でいる資格がないと思っているんだ。
「───そういう言い方はやめてって何度も言っているじゃん。母さんだって家族だよ」
母はいつもの穏やかで虚ろな笑みだけを投げかける。オレの言葉も気持ちも届いてはいるのだろうが、受け入れてはくれなかった。
「とにかく、優しくしてあげて。とっても繊細な子なんだから」
「はいはい。勉強するから、ほらあっち行った」
手を振って追い払う素振りを見せると母は素直に席を立つ。自室ではなくアトリエに向かっているようだ。
父が死んでから母は絵を描くようになった。といっても元々美大を出ているので全くの初心者だったわけではなく、父が生きていた間も趣味として気まぐれにスケッチなどはしていた。変わったのは力の入れようだ。
未だに体調が優れないことも多い母だが動ける時はアトリエに籠って絵を描いていることが多い。夜遅くまで、時には夜通し描き続けていることも珍しくなかった。
母の作品は決して誰もが知っているほど高名ではないが、個展なんかを開けるくらいには評価されていて、まとまった収入も得ていた。父の遺産が多く残っているとはいえオレたちがなに不自由なく過ごせるのは母のおかげだろう。
モチーフとして選んでいるのは主に自然の風景。穏やかで儚さを感じさせる緑や空を描く一方で、暗く重い海や湖を表現するその対照的な描き方が印象に残る。あの日のことをまだ引き摺っているのは明々白々だった。
「優しくしろって…してるっての」
自慢してもいいがこれでも美月にはかなり甘く接している自信がある。多少無茶な頼みも聞いているし、他人が相手なら許せないようなことも流している。『弟は姉の奴隷であることは文明開闢以来の常識』などという妄言に従って生きてきたのだ。これ以上どうしろと言うのだ。
「いかんいかん」
さっさと集中しなければ。勉強して、七年前まで住んでいたあの場所に戻って、そして───その後、その後は。
すたすたと階段を下りる音が聞こえて振り返る。美月が外出用に着飾った服装をして立っていた。
「どこか出かけるのか?」
「あ、うん。まあ…そんな感じかな」
質問すると陰のある笑顔を見せてそう答えた。調子でも悪いのだろうか、それとも気の乗らない相手に誘われているのだろうか。
そう想像した瞬間、あの日美月に粉をかけていた新田という男の顔が頭を過った。あんなにこっぴどく振られた男がまだ美月を誘う可能性もそれに美月が応じる可能性もないに等しいのに。
なんだかモヤモヤとした感情が胸に湧いてオレまで調子が狂い始める。だから妙なことを口走っていた。
「……体調悪いなら行かなくてもいいんじゃないか?」
「そうしたいけど…自分から誘っちゃったからさ」
そう言ってやっぱり美月は暗い笑顔を見せた。心配になったが、自分から誘ったということは相手はあの男ではないだろう。そう結論付けると理由の分からない安堵感を覚えた。
久しく感じていないような、不愉快なような、胸が弾むような、熱くてドロドロした気持ち。その原因であるあの日の出来事について問いただそうとした。
「美月、あの時なんで───」
「行ってきます」
オレの言葉を遮るように玄関に出ていった。逃げるように走る音が遠ざかっていく。
いきなりキスしてきたと思ったら今度は無視してきたり、弱いところを見せて心配させたり、かと思ったらまた避けてきたり、好き勝手振り回されているみたいで段々むかっ腹が立ってきた。
「勝手にしろよ、クソ姉貴…」
姉弟なのにまるで振られたような気持ちになる。惨めな気分を誤魔化すためにそう独り言ちた。
前回から大分間隔が空いてしまいました。申し訳ありません。