白い影
私の家の玄関は分厚い磨りガラスの引き戸タイプなのだが、今しがた大変なものを見てしまった。なにやら人の顔ほどの大きさの白っぽい物体が右上から左下へ移動していったのだ。
私はドキッとした。普通、こういう時はもっといい感じの言い回しがあるのだろうが、人は得体の知れないものを見ると心臓がドキッとするのだ。
玄関の外側に1番近い西手の小窓が網戸だったので耳をすましてみたが、何も聞こえない。砂利を踏む足音も、門を開ける音も聞こえない。何もいなかったのだろうか⋯⋯
いや、そんなはずはない。見間違いにしては大きすぎるからだ。飼い猫のマルもその時は私と同じく外を見ていた。確実に何かがいたのだ。
向こうから自動車が走ってきていて、そのライトではないか、とも考えたが、玄関の向こうには私の車が駐車してあり、また、他の障害物もあるので今まで光が届いたことはなかった。そもそもそこまで光っていなかった。ただ白っぽいだけだ。
嫌な消去法だ。安心出来る可能性を自分で1つずつ潰していっている。この消去法により、私はその白っぽい物体の正体の大方の見当がついた。
隣の家に住むおばさん『ムツコ』なのではないか。彼女は異常なほど顔に白粉を塗っていて、いつ会っても真っ白なのだ。あの白さなら磨りガラス越しでも分かるのも頷ける。
砂利や門の音がしなかった理由についても、ムツコならば可能だ。ムツコ家とは柵で仕切られているのだが、庭からの場合、下が40cmほど空いた板の仕切りを潜れば物音を立てずにうちに侵入することが可能なのだ。40cmなので這うしかないが、奴ならやってのけるだろう。こんな夜中にご苦労なものだ。
しかし、奴はいったい何をしに来たんだ? なぜこんな時間に玄関先に来たんだ? 玄関先には家に入りきらないダンボールが少し置いてあるくらいで、盗むものなんてないぞ? くそ、こんなに気になるのなら見た時に玄関を開けて確認するんだった。
いや、もし開けてそこにいるのがムツコじゃなかったら怖すぎるし、ムツコだったとしても怖いし、開けないのが正解だっただろう。私は正しい判断をしたはずだ。普通は幽霊だったら嫌だ! と思う所だが、私からするとムツコが玄関先にいる方がよっぽど嫌である。結局生きた人間が1番怖いのだ。
「ゔぁ〜〜〜」
隣からムツコの声が聞こえる。あくびだろうか。ちょうど居間の位置が隣同士で、しかもお互い同じところに窓があるので、少し何かあると何でも聞こえてしまうのだ。
「ワ"ンヅーワ"ンヅーゔぁっはっは!」
なんか分からんが歌いながら踊っているようだ。そう、ムツコはナチュラルデスボイスなのだ。歌はもちろん、普段の会話もデスボイスに聞こえるし、過去に何があったのか気になってしょうがない。
家に帰ったら玄関横の壁が凹んでいたことがあった。その時に、私が出かけている間にムツコが玄関まで来ていたという目撃情報があった。その時は証拠がなかったので何も出来なかった。それから私はムツコが怖くて仕方がないのだ。
今度は何をされるのだろうか、毒でも撒かれたんじゃなかろうか、バナナの皮でも置かれていたらどうしよう。その日はそんな事ばかり考えながら眠りについた。
朝玄関を開けると、外に置いてあったダンボールの上に回覧板が乗っていた。なんだ、ムツコは回覧板を持ってきたのか。怖がって損した。そりゃいつもいつも悪いことするわけじゃないよな。
家を出ると、ちょうどムツコが犬の散歩をしていた。私はさりげなく昨日の夜のことを聞こうと思った。
「おはようございます。回覧板ありがとうございます。いつの間に置いてあったのかなってビックリしちゃいましたよ」
「うん、昨日の夜仕切りの下からそっちに行って置いてきたのよ」
あっさり白状しやがった。
「前から回り込むのも面倒だったし、這って行った方が楽だったのよねぇ」
這う方が楽なんて有り得ねぇだろ。朝届けてくれればよかったのに。
「不思議なことに服が汚れちゃったのよねぇ。お宅の庭怖いわねぇ」
こいつバカだろ。
この前人んちのゴミ袋ほどいて中見てたらしい。そんなヤツいるんだなぁ。幽霊より怖いよ。顔真っ白だし。