九、囚われの亡霊
それは病院の奥のさらに奥。
誰も知らない、限られた人間しか行くことの出来ない、そんな場所だった。
鍵を開ける音が、廊下に重々しく響く。
扉には、花の形をした銅板が打ち付けてある。
耳障りな音を立てて、男が引き戸を開けた。
「あらパパ。久しぶり。娘の顔でも見たい気分だった? ざーんねん。私はね、忙しいの。この作品に集中したいんだから」
部屋の中は、ランプの灯りに照らされ明るかった。
その中で、楽しそうに手を動かす女が一人。
「あら、怖いお顔。わかってるわ。もう患者の髪の毛を切ったりしない。拉致もダメ。もうやらないわ。だってあの人……カズラさんだっけ? あの白髪のおばあちゃん、もういないんだもん。やろうと思っても出来ないわよ」
部屋に入って来た男は、ゆっくりと部屋の中にあった椅子に座った。
「あの画家は病院を去った。破格の条件を出したのだから、満足しているだろう」
「そうなの。よかったわね」
女はあっけらかんと言った。
「院内画家って、カルテを見られるでしょ? だから私、カズラさんに、魔力の高い患者を教えてもらってたの。『髪の毛には魔力が宿る』って聞いた事あったから、閃いちゃったのよ。魔力の高い人間の髪から絵筆を作ったら、素晴らしい作品を描けるんじゃないかって」
彼女の窪んだ目からは罪悪感など微塵も感じられない。
「あ、もちろん髪の毛はちゃんと私が自分で切ったわ。そこは人任せにしちゃダメよね。私の筆なんだから。カズラさんから、患者の部屋番号を教わって……あとは、カズラさんが描いた似顔絵を目印にしたのよ。間違えて魔力のない人の髪を切ったら大変でしょ?」
男は、苦悩の分だけ深くなった眉間の皺を強く揉み、ため息をついた。
「なぜ、あの画家を共犯者に選んだ?」
少しも詫びれた様子もなく、女はニコニコと笑って答えた。
「私とカズラさんは、同好の共ってやつよ。お互い絵を愛するもの同士、助け合ってたの。私は、彼女に手伝ってもらって、最高の『筆づくり』をする。カズラさんの方はね、ほら、院内画家の仕事って忙しいじゃない? だからちょっと私が手伝ってあげてたの。私が手伝った分、彼女は自分の作品に打ち込めるでしょ?」
「手伝い……だと?」
「そうよ。骨の折れた様子だとか、皮膚の裂けた具合だとか。そんな絵ばかり書いてて、自分の描きたい絵を描く時間もないって言うから、彼女のノルマ分を私が描いてあげていたのよ。結構面白いわね、院内画家って仕事も」
「お前……お前は一体なんでそんな——」
男の言葉に、女は近くにあったバケツを蹴飛ばした。
「だってしょうがないじゃない! パパが私をこんな所に閉じ込めるから!」
女はそう言って叫んだ。
「ねぇ、パパ。私は恥ずかしい娘? 病院の院長の娘が病気だなんて、世間に知られたくない? パパは私を頭の病気だって言うけれど……私のどこがおかしいの? どこもおかしくないわ。こんな毎日退屈なの。刺激が足りないの」
急に激昂し、ヒステリックに叫ぶ女。
男は目を逸らして言った。
「できる限り、望みは叶えて来ただろう?」
「そうね。確かに、パパのお陰で、私の絵は有名になった。大きな病院の院長お墨付きの絵だもの。芸術の事なんて少しもわからない人が、どんどん私の絵を買ってくれる」
女は手を止めて、男に向かって筆を見せつけるように持ち直した。
「だったら、画材にもこだわらなくっちゃ。そうでしょう? 患者の血を使うアイディアは、前にパパに見つかって頓挫しちゃったじゃない? だから今度は絵筆だと思ったのよ。私はプロよ? いい道具を使わなくっちゃ」
男は黙ってしまった。
患者や医師には、威厳に満ちた態度で接する彼も、娘の前では背筋を丸め、深く項垂れている。
「パパが私を亡霊にしたのよ。こんな所に閉じ込めて。でもね、カズラさんは、私を描いてくれたの。ずっと絵を描く側だった私が、描いてもらう側に立ったのよ! 何枚も、何枚も何枚も何枚も!! あの人が私の肖像画を描くたびに、私は実体を……力を得たの」
いるかいないかわからない、そんなあやふやなものが、描かれた事によって実体を持つ。
幻が実在化する。
妄想が具現化する。
亡霊が現れる。
見えないものが、見えるようになる。
「私はもっと描ける。これからも、ずっとずーっとよ」
カズラは彼女に感謝していた。
彼女のお陰で、カズラは自分の作品に打ち込めるようになった。
カズラは彼女を憎んでもいた。
彼女は、カズラが何十年かかっても手に入れる事の叶わなかった物を、生まれた時から持っていた。
『権力者との繋がり』。
彼女の絵が有名になり、病院の至る所で飾られているのは、権力者である父親の力による所が大きい。
しかし、彼女はカズラの事を嘲笑った。
お金のために描くだなんて、魂を捨てた薄っぺらな行為だと。
そう言って笑ったのだ。
父親の病院で、父親のお金で、父親の名誉の上に暮らしている彼女を、カズラは憎んだ。
その憎しみから、カズラは幾数枚もの『亡霊の絵』を描きあげた。
彼女は、カズラの憎しみなど気づきもしなかっただろう。
自分を描いてくれたカズラに感謝していたぐらいだ。
しかし、父親にしてみれば、カズラの描きあげた『亡霊の絵』は問題だった。
あの絵が存在する限り、いつどこで娘がした行為が表に出ないとも限らない。
あの絵を指して『この女が私をさらった』とグリジア医師が証言した以上、娘を描いた絵は早急に処分しなければならなかった。
娘が幼い頃から、父親はいくつもの出来事をもみ消してきた。今回も同じ事だ。
カズラは決めたのだ。
どんな手を使ってでも絵の世界で生きると。
そのために『亡霊』を人質に取ったのだ。
男は、項垂れたままだった。
女は、キャンバスに向かい、鼻歌を歌いながら、続きを描き始めた。
時々、思い出し笑いをしてケタケタと声を上げる。
誰も来ない病院の最奥。
彼女の笑い声が響き、そして止んだ。
その後、『亡霊』の姿を見たものはいない。
彼女の行方は、誰も知らない。
笑う亡霊の絵画——了——
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