八、画家と剣士の別れ
「ここを出て行く事になりました」
騒動の翌日、私はカイエンにそう告げた。
「そうか」と彼は小さく頷いた。
カイエンの連れの少女は無事に退院が決まったそうだ。
私は病院の入口で、彼らを見送ることにした。
カイエンの後ろの少し離れた所で、小柄な少女、メイド服の女性、そして黒ずくめの青年が立っている。
あいにく外は雨がまだ降っていた。
私はカイエンに握手を求めた。
「ありがとうございます。あなたに出会えて良かった」
私の皺だらけの手を、彼の日に焼けた大きな手が包み込む。
「どうぞ、お元気で」
こんな年寄りの私に、彼は終始親切だった。
中庭で絵をばら撒いてしまった時は拾ってくれ、足元のおぼつかない私の手を引いてくれた。
近づかないとよく見えない老眼の私を、疎んじる事なく絵のモデルを引き受けてくれた。
心の優しい若者なのだろう。
私とは真逆の人間だ。
私は、目的のためなら手段を選ばない、そんな人間だ。
♢ ♢ ♢
昔、まだ私が若い頃、さる貴族の女当主から肖像画を依頼された事があった。
今考えれば、私の人生で二度と訪れないような、大チャンスだったのだろう。
私は命を削るようにして、巨大な肖像画を完成させた。
当主からも大いに喜ばれた。
報酬もはずんでもらったが、お金よりも私が欲しかったのは『権力者との繋がり』だ。
有名な画家というものは、力を持ったパトロンが付いているものだ。
貴族の部屋に私の絵を飾ってもらう事が出来れば、私の評判が広まるかもしれない。
権力者との繋がりが、私は喉から手が出るほど欲しかった。
あの作品を見てもらえれば、私は必ず評価される。そう思っていたのだ。
しかしその後私は、当主の訃報を知ることとなる。
彼女は三人の娘を遺して亡くなったそうだ。
絵がどんな場所に飾られているのか、私は知る由もないが、もし閉ざされた部屋にでも飾られていたとしたら……私の絵は、日の目をみることもなく、誰にも評価されずに埋もれてしまう。
その後、依頼が舞い込むことはなかった。
生活のため、生きるためにはやりたくない事もやらねばならなかった。
ノルマに追われ、毎日を使い捨てるように生きてきた。
そんな日々は終わる。
病院の院長が、私の絵を知人に紹介してくれるのだ。
病院の入口に飾ってあるあの大きな絵のように、私の絵もたくさんの人に見てもらえるだろう。
私は病院の外を見つめた。
今はまだ降っているこの雨も、いつか降り止むのだ。
ふと、黒ずくめの若者が、私の方に近づいて来た。
「カイエンさんがお世話になったそうで。ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
握手を交わした後、彼は微笑みながら言った。
「例の『亡霊の絵』も素晴らしかったですが……カズラさんが院内画家として描かれた絵、拝見しましたよ。傷跡の様子、治療後の様子……あそこまで描き込むのは大変でしたでしょう」
「ええ……でも、仕事ですから」
この黒ずくめの青年が、カイエンの言っていた『先生』なのだろう。
確かに、得体の知れない不思議な若者だ。
このまま別れてしまうのが惜しい気もする。
「ちょっと気になったのですが」
吟遊詩人の青年は、さらに一歩私に近づき、カイエンに聞こえないような囁く声で言った。
「拝見した限り、院内画家の絵と『亡霊の絵』……絵のタッチが別人のようですね」
私は、ゆっくりと吟遊詩人を見返した。
「カズラさんとは別に、どなたかもう一人……お二人で描いているような、そんな印象を受けたものですから——」
「写実的な記録と、芸術性を求める作品——全く違うものですし、絵のタッチも変わります。いえ、むしろ変えています」
「そうでしたか」
吟遊詩人の若者は、なおも言葉を続ける。
「私の故郷では、作者の代わりに作品をかく影の作家の事をこう呼ぶんです」
彼は優しく微笑んだ。
「『亡霊画家』と」
♢ ♢ ♢
そもそも、順番が違うのだ。
私の描いた亡霊が、絵から抜け出して病院をうろついていたのではない。
病院をうろついている亡霊を、私が絵に描いたのだ。
病院の入口正面にある、大きな絵。
あれは、彼女が描いた絵だ。
私と同じ、絵を描く事に取り憑かれた亡霊のような彼女。
病院の最奥で暮らしている、自由気ままな入院患者。
彼女の存在は、トップシークレットで、病院の上層部しか知らないという。
毎日ただただ絵を描いて過ごしているそうだ。
私からしてみれば羨ましい事このうえない。
彼女と出会ったのは偶然だった。
院内画家の仕事が終わらず、深夜まで病院に残って絵を描いている私の元に、彼女がふらりとやって来たのだ。
絵の具の匂いに引き寄せられでもしたのだろうか。
彼女は私を嘲笑った。
お金のために絵を描く私を。
魂を捨て置いてしまった私を。
紙よりも薄っぺらだと笑った。
そして、話を持ちかけてきた。
「あなたの仕事、手伝ってあげる。その代わりに、魔力の高い患者を教えてよ」と。
私はそれを承諾した。
今まで仕事のノルマに追われて、自分の絵を描く時間など取れなかった。
しかし、彼女が私の仕事を手伝ってくれたおかげで、自分の作品と向き合えるようになった。
カイエンの絵をゆったりとスケッチ出来たのも、彼女が私のノルマ分を描いていてくれたからこそだ。
私の同僚達は、今も仕事に追われて、人の骨や傷を描き続けている。
亡霊と出会う前の私もそうだった。
生きるためには、やりたくない事もやらねばならない。
院内画家の仕事も。
亡霊の手伝いも。
他人に描いてもらった絵を自分が描いたと偽る事も。
吟遊詩人の言葉を借りれば、彼女は私の亡霊画家だった。
雨が弱まった。
「先生、カイエン、早くいこうよー」
向こうで鳶色の髪の少女が呼んでいる。
吟遊詩人とカイエンは、連れ立って出ていった。
その姿を私はずっと見送った。
彼らの姿を雨がかき消す。
見えなくなったのは彼らの姿か。
それとも私の方か。
どんなに頑張ろうと、透明なままでは、誰の目にも止まらない。
そんなのは嫌だ。
このまま死んでなるものか。
どんな手を使ってでも——
目的のためなら手段を選ばない、そんな人間になってやる。
私が、彼女の絵を描いたのは、意味があっての事だ。
何枚も、何枚も何枚も何枚も。
私は亡霊の絵を描いた。
私が、生きるために。
ずるく汚い理由で、私は亡霊の絵を描いた。
いるかいないかわからない、そんなあやふやなものが、描かれた事によって実体を持つ。
幻が実在化する。
妄想が具現化する。
亡霊が現れる。
見えないものが、見えるようになる。
絵の力で、私は生きてやるんだ。
口を歪め、笑ってみせた。
誰も見てない事はわかっている。
それでも私は、顔にグッと力を入れ、自分を鼓舞するように笑みを浮かべ続けた。