七、扉の向こうの亡霊
「院内画家達が使っている倉庫がある」
白いローブの集団が、廊下を猛進している。
その先頭は、怒りに燃えるカミール医師だ。
「おそらくカズラはそこにいるのだろう」
他の医師達もカミールの後を追う。
そのさらに後ろ、白い行列の最後尾には黒ずくめの吟遊詩人の姿があった。
病院の奥まった場所にある暗い倉庫。
その扉の前に立ち、カミールはドアを乱暴に開けた。
「おい、カズラとかいう画家はいるか」
部屋の中には、二人の人間がいた。
一人の男が立ち上がり、こちらにやってくる。
「随分と乱暴だな。何の用だ」
カミールは思わずたじろいだ。
入り口を塞ぐように立った屈強そうな男は、顔に白い仮面をかぶっていたのだ。
(なんだ、この不気味な男は)
「おや、カイエンさん。こんなところにいましたか」
拍子抜けするほど柔和な声が、後ろから聞こえた。
黒づくめの青年が、ひらひらと仮面の男に向かって手を振っている。
カイエンと呼ばれた仮面の男は、驚いた様子だ。
「先生? どうしたんです? こいつら何者です?」
「ここの医者だよ。悪いけど君。ちょっと退いてくれ」
カイエンを押し退けて、カミールは倉庫の中に入る。
筆や絵の具、キャンバスなど、画材が雑然と置かれ、どこかかび臭い独特の匂いが渦巻いている。
「私がカズラですが……どうされましたか」
女性が、ゆっくりと立ち上がった。
カミールは彼女を睨みつけた。
「どうしたじゃない。わかっているんだ。お前が患者の髪を切ったことも。そして、グリジア医師をさらって監禁していた事も」
「何を言うんだ!」
カイエンが、怒鳴るよう抗議する。
「あんたの目は節穴か? その人がそんな事やれるわけがないだろ!」
「どうせ薬でも嗅がせたに違いない。それか眠り魔法か? 何にしても、言い逃れ出来ないぞ。患者の似顔絵を描いた画家を探して、お前に辿り着いたんだ」
「確かに」
カズラは静かに言った。
「患者さんの似顔絵を描かせてもらいました。それは間違いありません」
「そうだろう、だったら——」
「ですが、」
「カズラさん——」
「おい、連れて行け!」
声が交差し、場が騒然とする。
その時だった。
「違う……その人じゃない」
か細い声がした。
皆、声の方を振り向く。
視線の先には、グリジア医師が吟遊詩人に支えられるようにして立っていた。
「グリジア、君も来たのか。休んでなきゃダメだ。いいからここは任せて——」
「違うんです」
カミールの言葉を遮り、グリジアが声を絞り出す。
「私、亡霊を見たんです。その人ではありませんでした」
「でも、部屋だって薄暗かっただろう? 顔だって良く見えなかったんじゃないのか?」
亡霊の落ち窪んだ目、長い髪、痩せた指……。
「それでも別人だという事ぐらいわかります。亡霊は、髪の長い、若い女性でした」
グリジアの言葉に、カミールが、周りの医師達がたじろぐ。
「では、人違いですね」
カズラはそう言って、皺だらけの手で髪をかき上げた。
彼女の細い白髪が、パラパラと肩に落ちる。
「こんなお婆さんには、人をさらう事も、監禁する事も難しいですよ」
カズラは、皆を見回し、悠然と微笑んだ。
♢ ♢ ♢
いつか、肖像画家として成功したい。
魂のこもった絵を描きたい。
私の願いはそれだけだった。
夢を追いかけ、この年齢になってしまった。
老眼もすすんだ。
顔を近づけないと良く見えない。
足元もおぼつかない。
生きるためには、やりたくない事もやらねばならない。
院内画家の仕事は忙しく、自分の絵を描く時間が仕事で食い潰されていくようだった。
何のために私は絵を描いているのか、見失いかけていた。
ここでは、私はまるで透明のようだった。
誰の目にもうつらない。誰も気に留めない。
そんな透明の私。
「じゃあ一体、亡霊の正体は? どこにいるんだ?」
グリジア医師が私の無実を証言し、カミール医師は狼狽している。
倉庫内は人が溢れ、混乱を極めていた。
その時だった。
「何の騒ぎかね」
騒つく倉庫内に低い声がひびいた。
病院の最高権力者——院長が現れたのだ。
カミール医師が代表して、事情をかいつまんで説明する。
院長は話を聞き終えると、鋭い目で部屋の奥の扉を睨んだ。
「その奥の部屋は何かね」
しかし、誰も返事をしない。
それはそうだろう。
部屋の中の事を、知っているのは私だけだ。
院長が「開けなさい」と重々しく命令した。
私は無言で奥の部屋の扉を開けた。
皆が、部屋の中へと足を踏み入れる。
院長を初め、カミール医師や他の医師たち、黒ずくめの若者、グリジア医師……中に入った彼らは、次々と驚きの声をあげた。
そこには、いくつもの『亡霊の絵』があった。
窪んだ目、長い髪、細い指。
痩せ細った身体に、汚れた服を身にまとい、檜皮色の髪は、手入れされずに伸ばしたままの彼女。
落ち窪んだ目がギラギラと光っている。
私が最近好んで描いているモチーフ——『亡霊』の絵だ。
患者の似顔絵を描く時も、サイン代わりに小さく描き込んだ。
「……これは……この絵は……」
部屋の中にずらりと並べられた亡霊達を見つめ、院長はよろめくように後ずさった。
「見事な腕前ですね」
褒めてくれたのは、黒ずくめの若者だけだった。
すると、グリジア医師がかすれた声で言った。
「私をさらったのは、この女です! ……この絵の女が私を……私の髪の毛を……」
グリジアは一枚の絵を食い入るように見つめていた。
「この絵……この飾り……」
その絵は、引き戸から顔を出してこちらを見つめる亡霊の絵だった。
枯れ枝のような指が、戸にかけられ、薄く笑うようにこちらを見ている。
戸の上部にはプレートが貼られている。
花の形をした小さな銅板だ。
「この花の飾り……私の閉じ込められていた部屋にありました」
周りの医師が騒ついた。
「こんな部屋、誰も見たことないぞ」
そして皆の戸惑いを代表するかのような声が聞こえてきた。
「亡霊が絵から抜け出したんだ」
おそらく医師のうちの誰かの声だったのだろう。
それをきっかけにざわめきが起こる。
「夜になるとこの絵から亡霊が抜け出すんだ」
「気に入った奴の髪の毛を切るんじゃないか」
「さらわれるんだ。絵の中に連れていかれる」
恐怖が伝染していく。
しかし、パニックが起こる寸前の所で、低い声が皆を一喝した。
「やめないか」
院長だった。
心なしか、顔色が悪いようだった。
「カズラ君と言ったね。君の才能はわかった。院内画家などをやっているには惜しい腕前のようだ。描いた絵に命が宿り、絵から抜け出すとはね」
そして、私の肩をグッと掴んだ。
「だが、もうこの絵は描かないでくれ。いいかい、私は、患者を、医師を、そしてこの病院を守らなくてはならない」
院長の熱のこもった言葉を、医師達も黙って聞いている。
「もしその約束を守ってくれるのなら、この絵は私が全て買い取ろう。そして……どうだろう。私には芸術を愛する友人も多い。彼らに君のことを素晴らしい画家として紹介しようではないか」
それは、私が待ち望んでいた言葉だった。
私は院長の言葉を受け入れた。
こうして、病院の亡霊騒ぎはおさまったのだ。
真実を覆い隠したまま。