六、亡霊の正体
アトリエの外では、まだ雨が降っている。
「開けないでくださいね」と言ったにも関わらず、カイエンの目は、奥の扉に向けられたままだった。
「本当にありがとうございます。ごめんなさい、こんな所まで来てもらって」
奥の扉から意識をそらすために、私がそう言うと、ようやくカイエンはこちらを見た。
彼は、何故だか苦笑いをした。
「カズラさんは、もしかしたら俺が思っているより、ずるい人かもな」
彼の言葉に、私は首を傾げる。
「どう言う事です?」
「あんたみたいな人に頼まれたら断れないだろ。それは、自分でもわかってるんじゃないか?」
なんと答えたらいいか分からず、私は曖昧に笑った。
「そんな事より、先程の言葉。あれはどう意味ですか?」
「先程の言葉?」
「魔力のない絵など存在しないって、さっきあなたが」
「ああ」
カイエンは頷いた。
「俺の恩人の先生が言ってたんだがね、『描く』という行為そのものが魔術みたいなもの、だそうだ」
カイエンは、私の勧めた椅子に座ると言葉を続けた。
「先生の故郷に、ある有名な呪術があるらしいんだが」
私は彼の話を聞きながらキャンバスを立てかけ、彼の絵の続きを描き始める。
「もともとは、地域によってやり方が違ったそうだ。まずは呪いたい相手の髪の毛を人形に仕込む。夜中にその人形に釘を打ち付けると、相手の身に災いが起こる」
カイエンは、「だが」と言って言葉を続けた。
「呪術というのは、本来は秘術だ。一部の人間のみ知っているものだった。有名な呪術という言葉自体が矛盾している」
「ええ……確かに違和感はありますね」
カイエンは、私の言葉に頷いた。
「きっかけは、ある有名な画家の絵だったそうだ」
「絵、ですか」
私は、彼をじっと見つめる。
「画家が、その呪術の様子を絵にしたんだと。女が白い服を着て、頭に蝋燭を括り付けた金輪を被り、人形に釘を打ち付けている。そんな絵だったらしい」
「……それは、随分と奇抜な格好ですね」
「絵のおかげで、というとおかしいが、呪いの方法が庶民に知れ渡った。それをきっかけに、人を呪いたい場合は、そんなおかしな格好をするのが『正装』だと言う認識が生まれたんだ」
「絵が、呪いの方法を決め、それを広めた……」
「そうだ。それほど、絵の力というのは強い」
カイエンはふっと笑ったようだった。
「曖昧なものを決定づけ、ありもしないものを大衆にみせる。『絵というのは、それだけで魔力を持つものだ』と、うちの先生は言ってた」
わかるような、わからないような話だ。
「実態のない亡霊だって、絵に描かれれば皆が認識する。その結果、いるかいないかわからないような亡霊を皆が恐れることになる。そんな事を言ってたな」
——亡霊、か。
するとカイエンが意外な事を言った。
「本当は俺なんかよりも、絵に描いて欲しい人がいるんだ」
「描いて欲しい人……恋人でしょうか」
探るような私の言葉に、彼は笑って否定する。
「そんな人はいない。描いて欲しいっていうのは、今言ってた俺の先生の事だ」
「先生……吟遊詩人の方、でしたね」
頷くカイエンの声には、複雑な感情が滲んでいた。
「俺の恩人なんだ。だが……なんといえばいいのか……その人は、見た目こそ奇妙だが、知識も豊富で人当たりもいい、そんな人だ」
私は黙って手を動かしながら、彼の話を聞く。
「ただ、あの人が本当はどういう人間なのか、一緒に旅をしていてもまだ掴めない。吟遊詩人なんてのをやってるだけあって、あの人はまるで……物語の『語り手』のような人だ。語り手には人格はいらないだろう? 物語を優しく紡ぐ、ぼんやりとした存在。先生が本当はどんな姿をしているのか、俺の見ている先生の姿は果たして本物なのか……」
カイエンは、じっと自分の手を見つめた。
「浮世離れしてるんだ。いつの日かまるで亡霊のように、姿を消してしまうんじゃないか、そんな風に思う。この世のものではないような……この世界の人ではないような、そんな不思議な人なんだ。先生は」
「消えてしまうのが、怖いんですね」
私の言葉に、カイエンはパッとこちらを見る。
「絵に描かれる事で、この世につなぎ止められる……あなたは、その人に消えて欲しくないんですね」
「まあ、そうなのかもしれんな」
いるかいないかわからない、そんなあやふやなものが、描かれた事によって実体を持つ。
幻が実在化する。
妄想が具現化する。
亡霊が現れる。
見えないものが、見えるようになる。
「だったら——」
私は勇気を振り絞って言った。
「私が、あなたの素顔を描いたとしたら、どうなるでしょうか」
カイエンはこちらをじっと見つめ返した。
仮面に阻まれその表情までは読み取れない。
「俺の素顔なんか、描いてもらう価値はない」
「でも」
私は彼に近づいた。
仮面の目の前まで顔を寄せる。
彼の呼吸が聞こえる距離だ。
こうした方が、彼の事がよく見える。
「私は、あなたを描きたいんです」
こんなに距離が近いのに、カイエンは顔を背けない。
無言で、私を見つめ返す。
燃えるような赤い髪。
触れたら火傷するだろうか。
雨はまだ止まない。
部屋の中に沈黙が満ち、雨音を際立たせていた。
♢ ♢ ♢
病院は騒然としていた。
行方不明となっていたグリジア医師が見つかったのだ。
全身に打撲があるものの、命に別状はないようだった。
回復魔法により、怪我の具合は良くなったが、彼女はかなり憔悴していた。
「髪を切られた患者は、皆退院してしまって、話を聞くのに時間がかかる。だが、勤務状況から考えると、おそらく被害者たちの肖像画を描いたのは、カズラという名の画家のようだ」
グリジアの病室で、カミール医師は吟遊詩人にそう告げた。
あまり大勢で押しかけるべきではないと判断し、ここに来たのは吟遊詩人だけだ。
グリジアはベッドに横たわり、カミール医師の話を黙って聞いている。
「くそっ。同僚がこんな目に合わされるなんて」
カミールは悔しげに言った。
「亡霊の正体は、画家だった——そういう事だろ? カズラとかいう画家が、肖像画を描きながら獲物に狙いを定め、夜になると病室に忍び込んで髪を切り取る。標的は、髪が長く魔力の高い人間だった。患者の中にお眼鏡に叶う相手がいなくなると、今度は医師をさらって監禁していた——まったく、とんだ化け物だ」
「私はそのカズラという方に会ったことがないのですが——」
グリジアが、声を絞り出すようにして言った。
「その女が、亡霊の正体……なんですね」
「おそらく状況から見てそうだ」
カミールの言葉に「だったら」とグリジアは身体を起こして言った。
「だったら、その人を止めなくては。あの部屋で、私は髪の毛で作った筆を見つけたんです。彼女が髪の毛を集めていたのは、おそらく魔力のこもった筆を作るため……そんな事、絶対に止めなくては」
「そうだな。病院内のどこかにいるはずだ」
吟遊詩人は、黙って二人の話を聞いていた。
窓の外は暗く、何も見えない。
雨音がだんだんと強くなった。