五、囚われの医師
「あなたの言う通りだった」
病室にカミールが飛び込んできた。
「調べてみたら、グリジアという女性医師が行方不明になっているらしい。二日前、勤務に出掛けて以降、家に帰っていないそうだ」
カミールは茶色の短髪をかきむしり、悔しげに言った。
「彼女は解術士だ。呪いを打ち消す魔術を得意としている。優秀で、並はずれた魔力を持つ——」
そして、吐き捨てるように言った。
「髪の長い女性だ」
「どうしよう、先生」
ミミがいてもたってもいられない様子で吟遊詩人の方を見る。
「亡霊にさらわれたって、髪の毛を切るだけじゃ足らなかったってこと? さらわれた人はどうなっちゃうの?」
ミミも、ユーリも、そしてカミール医師までも、吟遊詩人をすがるように見つめる。
「亡霊は、魔力の高い者の髪の毛を欲していた」
吟遊詩人は、ゆっくりと立ち上がった。
「今までは、魔力の高い患者ばかりが狙われました。理由はわかりませんが『亡霊』にとって、それは外せない条件だったのでしょう。しかし、ここは病院です。自分達で回復術を使えない者……つまり魔力の低い者が訪れる場所です。五人を襲い、次の標的を探したが、条件の合う患者が見つけられなかった——と言ったところでしょう」
吟遊詩人の話を聞きながら、カミールは憤りで顔を歪めている。
「そこで、標的を患者から医師に変えたのです。患者よりは医師の方が圧倒的に魔力が高いですからね。今までは寝ている患者が相手でしたので、抵抗されるリスクは少なかった。男だろうが女だろうが、気にしなかった。しかし、医師ともなると油断出来ない。そのため今回は力の弱い女性を襲ったのです」
「先生、亡霊ってのは一体なんだ。得体のしれない化け物にうちの職員がさらわれたっていうなら、どうやって助けたらいいんだ」
「画家は見つかりましたか?」
吟遊詩人の質問に、カミールは一瞬ぽかんとし、それから首を振った。
「ああ、患者の似顔絵を描いたとかいう画家か……いや、それはまだ」
「人々は描かれた絵に注目します」
吟遊詩人は静かな口調で言った。
「主役は絵です。画家というのは透明な裏方仕事です。彼らはまるで亡霊のように、ひっそりとたたずみ、絵を描き、そして消えるのです」
「どういう意味だ」
「被害者の絵を描いた画家を探して下さい。何かを知っているはずです」
カミールはしばらく考え込み、そして言った。
「うちの病院には、院内画家と言って、患者の怪我した部分なんかを記録するために画家を雇っている。もっとも彼らは患者の顔なんか描かないぞ。描くのは皮膚だとか骨だとか……」
その時だった。部屋の外が騒がしくなった。
カミールは「失礼」と言って、様子を見に出て行く。
吟遊詩人達はお互い顔を見合わせた。
窓の外では、白い糸のような雨が降り続いていた。
♢ ♢ ♢
彼女——グリジアの元に、好機は突然訪れた。
食事の後、再び拘束された際、ロープの結び目が甘かったのだ。
グリジアは、扉の外で亡霊の気配がしなくなるのをじっと待ち、ロープを解きにかかった。
暑くもないのに汗が流れ落ち、呼吸が荒くなった。
いつ、また亡霊が入ってくるか……考えると恐怖で何度も手が止まりそうになった。
ついに、片方の手が抜けた。
グリジアは、急いでもう片方を解き、ようやく自由を手に入れた。
感慨に耽っている時間はない。
彼女は足音を殺してそっと小さな扉を開けた。
扉を開けた先には、独特の匂いが彼女を待ち受けていた。
そこには、たくさんのキャンバスが立てかけられていた。
この匂い——絵の具だ。
グリジアはそこで思い出した。
亡霊の手にべったりと爪先までついていた汚れ。
服にも飛び散っていたあの汚れ。独特な匂い。
あの赤黒い汚れは絵の具だったのだ。
グリジアは、そっと部屋の中を進んだ。
部屋の中はいくつもランプがともっている。
絵を描くには最適な環境だろう。
ふと、作業台の上に目をやりそれを見つけた瞬間、グリジアは全身の毛が逆立つのを感じた。
(私の髪の毛だ)
亡霊に奪われた彼女の金色の髪がひと束、揃えて括られ置いてある。
そして、その横には、金の筆先の絵筆が何本も置いてあった。
初めは意味を理解できなかった。
頭が拒否したのだろう。
しかし、じわじわと、その意味に、その正体に理解が追いつく。
その筆先はグリジアの髪の毛で出来ていた。
彼女の美しい金色の髪の毛。
切り取られた髪の毛は、絵筆になっていたのだ。
ではまさか。
グリジアはよろよろと後ずさる。
わなわなと手が震えた。
ここ最近、髪の毛を切り取られる不審な事件が病院内で続いていた。
患者達から奪われた髪の毛は……それもこうして筆にされたのだろうか。
あちらこちらに絵筆が転がっている。
絵の具を吸い、素の色がわからなくなった筆先。
ここにあるいくつかは、患者の髪の毛で出来ていると言うのだろうか。
そこで、グリジアはようやく自分が監禁されていた理由に気がついた。
髪の毛を切り続けるためだ。
それはまるで家畜のように。
毛を刈り取り、餌を与え、寝床を用意し、また毛が伸びれば刈り取る——。
髪の毛を切り取り続けるために、グリジアはさらわれ、監禁されていたのだ。
早くここから逃げなければ。
大きなキャンバスの横に、扉が見える。
あの引き戸が、おそらく外への扉だ。
彼女は震える足を引きずり、出口の方へと向かった。
キャンバスの影に、亡霊が立っていた。
グリジアは悲鳴を上げた。
亡霊を突き飛ばし、引き戸へ体当たりするように駆け寄り、力任せに引いた。
キュルキュルと、立て付けの悪い音をたて、引き戸が開く。
幸運にも鍵はしまっていなかったのだ。
恐怖で足がもつれた。
転びかけながら、開いた扉を見上げると、小さな花の形をしたプレートが打ち付けてあった。
それが何か考える暇はなかった。
転んだ体勢のまま這いずり廊下を進んだ。
なんとか四つん這いから起き上がる。
後ろを見る余裕がなかった。
早く逃げなくては。
亡霊が追ってくる。
捕まってしまう。
どこをどう逃げたかわからない。
がむしゃらに走って、階段にたどり着いた。
ここが何階かわからないが、早く降りなくては。
慌てていたグリジアは、手すりを掴み損ねた。
そして、その勢いのまま、彼女は階段の下まで転がり落ちてしまった。