七、二人の傷跡
「実は私も、故郷に息子がいるんです」
黒髪の男の口から出たのは、思いがけない言葉だった。
「訳あって養子に出しました。ほら、お話ししましたよね、出産直後に赤ん坊に向かって刃物を振り回した女の話」
地下で聞いた、分身に追い詰められた女性の事だろうか。
「あれ、私の妻の話なんです。襲いかかってきた妻から、子どもを庇った時にできたのが、この傷です」
黒髪の男は、片手をこちらにひらりと見せた。
向けられた手の平に、上から下にくっきりと一本の線が渡っている。
「妻とは時間をかけて、ようやく別れました。子どもの方は、安全を考えて、生まれてすぐに兄の家に預け、兄の子どもとして育てられる事になったんです。私は結局、自分が父親だと名乗らないまま、この世界に来てしまいました」
そして男は「まあ、そんな話は置いておいて」と、私を見下ろした。
「いいですか、司祭長様。聖女様の暗殺の件ですがね、警備隊に言わずに黙っておく事も出来ますよ。なんなら、この暗殺教団だって、もっと大きくしてあげます。その代わり、取引しましょう」
黒い瞳が、悪魔のように笑う。
「『ゲーム』の序盤で大切なのは、お金、そして情報なんですよ。この教団には、俺の金稼ぎと情報収集の基盤になってもらいたい」
男の言葉遣いが、だんだんと粗雑になる。
被っていた皮が捲れるように、その本性が姿を現す。
「この世界はゲームなんだ。どうせなら楽しんだもん勝ちだろう。ルールを守ってハードモードで挑むのか。神が授けてくれなかったチート能力を自分で自分に与えるか。俺は、このゲームを楽しみたいんだ」
男は、聖女様に微笑みかける。
「聖女様、君には俺の相棒になってもらいたいんだ。魔法を使える君がいると、色々と助かるんだが」
いいかい、という問いかけに、彼女はぎこちなく頷く。
話の展開に、彼の変貌に、まだ頭がついていかないのだろう。
「じゃ、まあ取引成立ってことでいいかな? 司祭長様も、オッケーかな?」
態度も、仕草も、言葉遣いも、全て変わった。変わらないのは、その黒い髪と瞳だけ。
「まずは暗殺ビジネスの方を大きくしよう。研究してみたい事もあるし、お金が貯まったら考えよっかな。あ、そうそう。『聖女様』って俺が呼ぶのも変だよね。名前は? 何ていうの?」
そう聞かれて、彼女はゆるゆると首を振る。あの子の持っていた名前は、聖女様として生まれ変わった時に失った。彼女が持っているのは、『聖女様』としての自分だけだ。
「じゃあさ、俺は『一号ちゃん』って呼ぶよ」
聞き慣れない言葉だった。
聖女様も同じだろう。
「それは……どういう意味でしょうか」
男は、彼女の頭に優しく手を置き、そして言った。
「俺の故郷の言葉。『初めての相棒』って意味さ」
彼女はそれを聞いて、嬉しそうにはにかんだ。
噛み締めるように「私はイチゴウ。初めての相棒」と呟いている。
私には、彼の故郷の言葉などわからない。
でも、『イチゴウ』とは、本当にそのような意味の言葉なのだろうか。男の乾いた笑みからは、そんな暖かみが感じ取れない。今目の前にいる男は、平気で人を捨て駒に出来る、そんな冷酷な人間なのではないか。
じわじわと冷たい水が足元から上がってくるような、嫌な予感がする。
「それにしても、息子の話をしたら、久しぶりに会いたくなっちゃったよ。まあ、俺もこんな世界に来ちゃったし、もう二度と会えないだろうな」
男はそう言って、ハハハッと乾いた声で笑い、手の平の傷をひと撫でした。
♢ ♢ ♢
警備隊長か危惧していた通り、教団による暗殺は止まらなかった。
そして、教団を隠れ蓑にした男の暗殺稼業は、どんどんと膨らみ、いつしか教団を飲み込んでしまった。
男が全てを乗っ取るのに、十年とかからなかったという。
♢ ♢ ♢
時は流れ——。
とある町で、吟遊詩人の一行が食事をとっていた。
「ねえ、先生。そういえばさ、その傷ってどうしたの?」
吟遊詩人の男の手元を、ミミが覗き込んだ。
彼の手の甲には、引きつれた古傷が、横に一本走っている。
「ああ、これですね。私が生まれた時に事故にあったそうで、その時の傷だと聞かされています」
吟遊詩人は、食事の手を止め、じっとその傷跡を見る。
「その時、近くにいた私の叔父が庇ってくれたそうで、叔父にも同じような傷が、手の平にあるんですよ」
「へぇ。前に話してた、失踪しちゃったっていう叔父さん?」
「ええ。塾の講師……『先生』をしていたんですけどね。ある日突然いなくなってしまったんです」
「じゃあ、先生の叔父さんも『先生』をやってたんだ」
二人の会話に、ユーリが入ってくる。
「そういえば、何で先生は、皆さんに『先生』って呼ばせているんですか?」
「ユーリさん、別に私から頼んで呼ばせているわけじゃないですよ」
苦い顔の吟遊詩人を横目に、ミミが
「だって、変な楽器の作り方とか、演奏の仕方とか、色々教えてくれるし」
と答えると、カイエンが、
「尊敬する人を『先生』と呼ぶのは当然だ」
と言い切る。
「はぁ、そんなもんなんですか」
ユーリは、わかったようなわからなかったような顔で、曖昧に頷く。
「珍しいですね、ご自分の話をされるのは」
カイエンがボソリと言う。
ミミも「あたしらは嬉しいけどね。先生が自分のことを話してくれるのは」と頷く。
「ああ、そうですね。何故だか、最近、よく叔父のことが頭をよぎるんです。もう二十年以上会ってないのですが」
吟遊詩人は、懐かしむようにその黒い瞳を細める。
「私も、こんな場所にまで来てしまいましたし、きっとこの先、会えることはないでしょうが……でも、この傷が叔父と私を繋げてくれているような気がするんですよ」
「ふーん。まあ、二十年経てば、姿も変わってるよね。でもさ、ばったり会ってもわかるんじゃない? その傷跡が、しるしになってくれてさ」
ミミの言葉に、吟遊詩人の男は柔らかく微笑み、手の甲の傷をそっと撫でたのだった。
見てはいけない死の前兆——了——