四、殺意を叶える分身
「それで……赤ちゃんは…夫はどうなってしまったのでしょう」
「無事だったそうですよ」
先生の言葉に、私はほっと息を吐いた。
「すぐに病院のスタッフがかけつけ、妻は取り押さえられたそうです」
「……妻の『分身』の話は妄想だったのかしら」
「どうでしょう」
男の黒い瞳が、ゆらめく明かりを映す。
「もしかしたら、ナイフを振り回した妻は、分身の方だったかもしれませんしね」
そう言って、彼は柔らかく微笑んだ。
「私の故郷では、怪しげで恐ろしい話を『怪談』と呼びました。光があるところに影ができるように、怪談は、いつ、どんな場所でも、どんな世界でも存在します」
地下から出ると、明るい外の光が眩しく、目を刺すようだった。
「そういえば……司祭長様は、魔法を使えるのでしょうか」
黒髪の男の唐突な質問に、私は困惑しながらも答えた。
「ええ。と言っても、大きな魔力はないのですが」
「見せて頂くことはできませんか」
「構いませんよ」
私は、教会に入ると、祭壇の盃を手に取って、中の水を捨てた。
「では、よく見ていてください」
私は盃を持つ手に魔力を集め、片手を盃に蓋するように置いた。
盃は、あっという間に水で満たされた。
先生が盃をじっと見つめているので、私はそれを手渡した。
「私には、この程度しかできないのですが、人の渇きを癒す魔法という部分を買われ、司祭長という役職まで頂きました。本当に、私には過ぎた身分ですが——」
「本当に、それだけでしょうか」
彼の言葉に、私は動きを止める。
「司祭長様はきっと、教団になくてはならない人なんじゃないでしょうか。例えば……そうですね。聖女様の神罰だと称して、影で教団の敵を始末してくれている、とか」
男はそう言ってから、にっこり笑った。
「もちろん、冗談ですよ」
そう言って、盃の水をぐいと飲み干した。
私は引きつりながら笑った。
「たちの悪い冗談ですね」
「失礼しました」
男はそう言って、頭を下げた。
「信じるって、面白いですよね。『聖女様』がいます、なんて言われても、見えない存在を大勢に信じさせる事なんて、本来は難しいはずなんです。でも『聖女様』を信じなかったせいで命を落とした人がいます、そう言うだけで、人は神罰を信じるようになる。実際に殺されてしまった人がいれば、余計にです」
「まるで、聖女様の存在を否定するような言い様ですね」
「失礼、そんなつもりはなかったんです。確かに存在するんでしょうね。私たちの心の中に」
だけど、と彼は首を傾げて見せる。
「心の中にしか存在しない、透明な聖女様が、元信者を殺すのは難しいはずですよね。誰かが手を下さなければ」
「何がおっしゃりたいんでしょう」
先生は、穏やかな笑みを絶やさない。反対に、私の顔はどんどんと険しくなっていく。
「ちょっと町に用があるので、失礼します。入信の手続きは、その後でもいいでしょうか?」
「……ええ…構いません」
聖堂を出て行く男の背中を見つめ、見送った。
私は先程と同じように、手のひらに魔力を溜め、男が空にした盃に水を溜めた。
私の魔法は、器を水で満たす事ができる。
それは小さな盃はもちろんのこと、それが器の機能をしている物なら水を注ぐ事ができる。
それは人体も同じ事だ。
人は器だ。
人体は臓器という名の器で出来ている。
それは魔法で水を注ぎ込み、満たす事ができる。
人を殺すのに、武器はいらない。力もいらない。
魔法さえ使えれば、簡単に人を溺れされる事が出来るのだ。
聖女様は、私の分身なのだろうか。
姿を見る事が出来ない、神の使い。
私の気持ちを全て汲み取って下さる。
私の代わりに、教団の邪魔となる者を罰して下さる。
「聖女様……やはり彼は、教団にとって、危険人物のようです」
『そのようですね。私の聖女の力で、神罰を下すべきでしょう』
私には聖女様の声が聞こえる。
私は目を瞑り、その場で跪く。
聖女様は、私の分身か、妄想か、それとも。
『司祭長、彼の事は、私に任せてください』
私に都合のいい事しか言わない。
私が目を逸らしたい事を全て請け負ってくれる。
そんな便利な、私の分身。
私は、聖女様の気配がなくなるまで、しっかりと目を閉じ続けた。
♢ ♢ ♢
被害者の知り合いを名乗る男が、警備隊長を訪ねてきた。薄汚れた格好をしているが、生前、被害者に親切にしてもらったと言う。話を聞かせてほしいと真剣な様子だったので、わかっている事だけ、彼に伝える事にした。
「おそらく、一連の被害者は、同じ犯人に殺されたんだろうな。被害者たちの生前の様子を聞いて回ったらな、何人かは『見てはいけないものを見てしまった。自分はこのままでは死んでしまう』と怯えていたらしい」
「見てはいけないもの、ですか」
「あんたの知り合いの男だがな、おそらく殺される直前、酒場に行ったようでな。そこで聞き込みをしたんだが、その男が店に来る前に、そいつの姿を店主が見たって言うんだ」
「それは……つまり、そっくりの分身を見たという事ですか?」
「いや」
警備隊長は、短く答え、黒髪の男を見返した。
「それがどうも、そういう事ではないらしい」