二、地下の小部屋
黒髪の男——『先生』を教会の聖堂で待たせ、私は司祭館まで鍵を取りに向かった。
鍵を取ったところで、聖女様の声が降りてきた。
『面白そうな男ですが、少し怪しい感じもしますね』
私は慌てて目を瞑る。聖女様のお姿を目にしてはいけない。
『本当に信者になるつもりがあるのでしょうか。教団の内部の事をお話しするのも心配ですね』
聖女様のお言葉は、まるで、私の中にある不安を代弁するかのようだ。
『いざという時は、私に任せてくださいね。昨夜も脱会した男に神罰がくだったようですし』
規律を乱した者には、聖女様が神罰をお与えになる。
特に脱会者は、教団の事を悪く言い広めるため、私の頭を悩ませる存在だ。それも、聖女様が解決してくださる。
『もし、あの男が教団の敵になりそうな時は、そう言って下さいね』
それきり、聖女様の声は聞こえなくなった。
私は、一つため息をつき、それから教会の方へ歩き出した。
♢ ♢ ♢
「聖女様になる人間は、信者の中から選ばれます」
私は、燭台に火を燈し、先生を教会の地下に案内した。
地下への階段は、教会の裏手にある。外へ出て裏にまわり、地下への扉の鍵を開けた。
石造りの階段を降りる音が反響して、実際よりもずっと深く感じる。
先生は無言だった。
階段を降り切った先には、祭壇があり、小さな盃が並んでいた。決められた手順でその盃を水で満たす。
すると、奥にあった石の壁が音を立てて開いた。
「足元に気をつけて下さい」と彼に声をかけた。
「ここが、聖女様の儀式を行う部屋です」
開いた壁の向こう側には床がなかった。いや、あることにはあるのだが、その部屋は深く掘り下げられていて、床が大人三人分ほどの下方にある。気が付かずに踏み出そうものなら、打ちどころが悪ければ怪我では済まない高さだ。
部屋の壁には、この教団が祀っている水竜が丁寧に彫り込まれている。
「綺麗な彫刻ですね」
先生が、壁を眺めながら呟く。
「あそこにある穴が見えますか?」
私は、こちらと反対側の上部にある穴を指し示した。大人がギリギリ通れるくらいの大きさだ。
「儀式の際、聖女様に選ばれた少女はこの部屋に横たわります。すると、あの穴から水がこの部屋に注ぎ込まれます。そうすると、この部屋自体が器のような役割を果たし、この部屋の天井まで水が満たされるのです」
部屋の中央には寝台があり、そこには手足にはめる鎖が繋がれている。
「なるほど……生贄の少女がこの部屋で命を捧げるわけですね——」
「いえ、違います」
私はきっぱりと否定し、それから意識的に微笑んでみせた。
「生贄ではありません。儀式により、聖女様として生まれ変わるのです」
先生は曖昧な表情で頷く。
「昨日までただの信者だった少女が、水竜の力を授かることで聖女様となり、私たちを見守ってくださるのです」
「見守るというのは——」
「もちろん、聖女様を目にすることはできません。万が一にもそのお姿を見てしまった者には、死が訪れると言われております」
「見ると死んでしまう……ですか」
「ただ、信仰心の強い者は、そのお声を聞くことが出来ると言われています」
「あなたは聞くことが出来るのですか?」
「ええ、もちろんです」
私は扉を閉め、階段の方に先生を促した。
「姿を見たら死ぬ……私の故郷にも、そんな話がありましたよ」
彼の声が反響する。
ふと、今ここでナイフで刺されたら、逃げる術などないのではないか、そんな物騒な考えが頭をよぎった。
この暗い地下の階段に、得体の知れない男と二人きりなのだ。その状況が、突然怖くなる。
沈黙を恐れて、私は急いで相槌を打った。
「そうでしたか。高貴な方の姿……それとも神獣か何かでしょうか? 畏れ多くて、直接見てはいけないという戒律は、どんな国にもあるものかもしれませんね」
蝋燭の光に照らされ、私と男、二人の影が長く伸びる。
「いえ、姿を見たら死ぬ——それは、自分の『分身』です」
「分身?」
「ええ、私の故郷では、自分とそっくりの人間が、世の中に三人いると言われていました。そして、自分と見分けのつかない分身の事を『ドッペルゲンガー』と呼びます」
聞いたことのない言葉だった。
田舎の小国の文化だろうが、随分と気味の悪い話だ。
もうすぐ階段を登りきる。それなのに、私は振り返って男の顔を確認するのが怖い。
先生はまだ言葉を続ける。
「いいですか、『ドッペルゲンガー』を見てはいけません。それは死の前兆です。自分の分身を見てしまった人間は、死んでしまうのですよ」
そして彼は、ある物語を話し始めた。
♢ ♢ ♢
ちょうどその頃。
路地裏で死んだ男の調査に、警備隊長は頭を悩ませた。
この辺りには川も海もない。しかも、男の服には、濡れた形跡がなかったのである。
問題は二つだ。
一つは、どのようにしてこの男が溺死をしたのか、その方法だ。
そして、二つ目の問題は、こう言った不審な遺体が、ここ最近増えている点だ。
先週は三人。先々週は二人。
今週はまだこの男だけだが、謎の溺死体がこの先増えないとも限らない。
この町では、ある教団が急激にその力を強めてきている。
信者の数が増えた分、民間人とのトラブルも多発している。
どこまで本当かわからないが、信者の少女が儀式の生贄にされ、何人も犠牲になっているなどという話も聞く。
町中がなんとなくピリついている。
(嫌な予感がする)
警備隊長は不安を胸に、部下にパトロールを増やすよう指示を出した。
(何もなければいいのだが)
彼の願いは叶わず、悪い予感は的中することになる。